レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
2.神の力
石の床と石の扉がガリガリと音を立て、石室と通路を隔てていく。石の扉は完全に閉じる前に動きを止めた。
充分か、とマクヴァルは思った。戦士さえ通れなくなればそれでいいのだ。こんなことに時間を掛けるわけにはいかない。
石台を振り返ると、リーシャがリディアをその上に寝かせていた。
「まさか本当に動いてくれるとは」
マクヴァルが薄笑いを浮かべると、リーシャはフッと空気で笑った。
「アンタのためじゃないわ」
ツンとそっぽを向くと、私のためよ、と、付け足す。
「それでも、ありがたい」
マクヴァルはそう言ってリーシャに笑みを向けた。
愛想よくはしていたが、マクヴァルにとってリーシャの存在はどうでもよかった。なにせ目の前にはシャイア神の巫女がいる。しかもフォースは崩落に巻き込まれている。
フォースが少しでも命を保っているなら、さらに幸運だ。生きていたとしても、あの崩落にあえば無傷ではいられないだろう。傷が深ければ深いほど、短剣で鏡に封じることも容易になる。
まずは、シャイア神の力を取り込む術を完成させてしまえばいい。そうなれば、戦士はただの神の守護者に戻る。降臨を解かれることもなくなるし、神の力を使えばどうにでもできる存在になるのだ。
マクヴァルは石台に歩み寄った。リーシャはマクヴァルの側にいるのがイヤだとばかりに眉を寄せると、石台を離れて後ろに下がり、羽を動かして中空へと浮かび上がった。
マクヴァルはリディアの顔をのぞき込んだ。遠見をした時に、鏡の中でなら見たことがあったが、自分の目でじかに見るのは初めてだった。
黒鏡で見た姿を美しいと思っていた。だが実際はそれ以上だ。白くなめらかな肌、しっとりと艶やかな唇、琥珀色に輝く絹糸のような髪。それらが絶妙に作用しあい、清純でいて色気のある容姿を形作っている。
マクヴァルは思わずリディアの頬に触れた。指先にきめ細かでなめらかな感覚が伝わってくる。
「ん……」
リディアの眉が寄り、唇から息が漏れた。
「そろそろ気付くか」
マクヴァルは石台の隅から鎖で繋がっている拘束具を取り出し、リディアの右足首に取り付け始めた。ガチャッと冷たい金属音で、リディアがうっすらと瞳を開く。
マクヴァルが顔をのぞき込むと、リディアはハッと息を飲んだ。マクヴァルから逃れようとほんの少しずり上がっただけで、拘束具が右足首を引きとどめた。
恐怖で歪んだ顔に笑みを向けると、マクヴァルはリディアの両手首をつかみ取る。
「イヤ、離してっ」
抵抗はされたがその力は強くはない。さほど必死にならなくても石台の上に両方の手首を押しつけることができた。シャイア神の放つ白い火花を完全に無視し、マクヴァルは笑みを浮かべたままリディアに顔を近づける。
「神の力同士は相殺できる。どんな抵抗も無駄だよ」
リディアはギュッと眉を寄せ、顔を背けた。これだけ顔をしかめても、美しさは少しも損なわれていない。顔を背けたことで顕わになったうなじに、マクヴァルはまた惹き付けられた。
「儀式も呪文さえ無視すればただの情交だ。そんなに怖がることはない」
その言葉に恐怖が増したのか、リディアの抵抗が強くなる。
「や、いや、フォースっ」
「レイクスなら、崩れた土の下だ。呼んでも無駄だぞ」
ビクッと身体を震わせ、リディアは凍り付いたように動きを止めた。ゆっくりと視線をマクヴァルに合わせる。
「崩れ、た……?」
「ああ、お前は気を失っていたからな。崩落が起こったんだよ。お前が連れてきた二人、レイクスも緑の怪物も埋まっている」
リディアの顔から血の気が引いていく。マクヴァルは冷笑を浮かべ、うなずいて見せた。
「……、嘘」
「そう思いたければ思っているがいい。儀式が済んだら見せてやる。お前が望むなら、遺体も掘り起こしてやるぞ」
「嘘よ、そんなの嘘っ」
再び抵抗を始めたリディアの両手首を片手で押さえつけ、拘束具を手にする。
「やめて、解いて、いやぁ」
マクヴァルが石台の裏に回ると、部屋の隅から小さな笑い声が上がった。リディアが声の方に視線を向ける。
「だから彼に抱かれておけばよかったのに」
「あなたは……」
リディアのしかめた顔を見て、リーシャはまた可笑しそうに笑った。
「おなかを蹴飛ばされたのも頭に来てるのよ。さぞ彼も心残りでしょうね」
リーシャは肩をすくめて首を横に振った。拘束から逃れようとガチャガチャと鎖の音を立てるリディアの側に、黒曜石の短剣を手にしたマクヴァルが戻ってくる。
「おとなしくしていないと、身体に傷が付くぞ」
マクヴァルはリディアに見せつけながら、一度頬に短剣を突きつけると、喉元から服の間に黒い剣身を差し込み、一気にスカートの裾まで服を裂いた。ただの布切れになった服は、リディアの肌を左右に滑り落ちる。
太ももの短剣に気付いてそれを手にすると、マクヴァルは、くくり付けるための革紐をその短剣で断ち切った。短剣を石の隙間に差し込み、横方向に力を込めて剣身を折る。
肌があらわになったリディアに視線を戻すと、その身体から虹色の光がわずかずつ立ちのぼっていくのが見えた。リディアは身体を硬直させ、震える唇でフォースの名前を繰り返しつぶやいている。
「これで逃げられまい」
マクヴァルは手にした小さな壷の中身を、リディアの胸の真ん中に細くしたたらせた。
「痛っ、いやぁ……」
黒い液体は、まるでシャイア神の光をリディアの身体に縛り付けるように、放射状に広がっていった。
***
崩落した石に打たれながらも、フォースは意識を保っていた。左足は少し動かせば自由になりそうだが、右足は太ももまで埋まっている。身体のあちこちが痛むことも、逆に意識を失わない助けになっていた。暗闇の中、体勢を低くしたままで、崩落の音が収まるのを待つ。
完全に収まっただろうことを悟ると、フォースはまわりを見回してみた。だが、光が無いためにまるきり状況がつかめない。手でまわりを探ろうとして、まだ剣を握ったままだったことに気付く。
なんとか剣を鞘に納めたが、まわりにほとんど空間が無いのが分かった。どう動いていいか見当も付かず、ただ手であたりを探るうち、足元左側にボーッと薄く光が差してきた。その虹色の光で、それが意思を伝えし剣だと分かる。
フォースは必死で手を伸ばし、それを拾った。短剣が光っているということは、リディアはまだそんなに遠くないところにいて無事なのだ。
だが、安心している時間はない。その光を頼りに、フォースはまわりを見回した。自分の上に覆い被さった壁を見上げ、その緑色でティオだと分かる。
「ティオ、おい、ティオ!」
声を掛けながら、両手で力任せに押し上げた。ウウン、と唸るような声がして、ティオの身体が上に移動し、バラバラと石や土が振ってくる。すぐ側にアルトスが倒れているのが見えた。
「フォース?」
いくぶんボーッとしたティオの声がした。
「かばってくれたのか。引き上げてくれ」
フォースは、つぶれた鎧のパーツを外しながら声を掛けた。この鎧のおかげで、いくらかでも怪我が防げたと思う。
ティオはフォースの両手をつかんで引っ張り上げた。激痛に漏れそうになる声を食いしばってこらえる。ティオの顔がこわばった。
「フォース、怪我してる」
「これだけですんだのはティオのおかげだよ。リディアは無事だ、早く行かないと」
石室に向かおうと足を踏み出し、身体の痛みで怪我のひどさを再確認させられる。
「大丈夫?」
「動ければ問題ない」
とは言え、背中の左側と右足に、動くことに支障が出るほどの激痛がある。確かに動けはするが、無傷の人間を追いかけるほど動けるかは分からない。
ガチャっと金属音を立て、アルトスが上体を起こした。鎧が変形しているのか、ギギギとプレートが擦れる音がする。立ち上がった顔には、まだ表情が無い。
慌てたティオが、アルトスに後ろから抱きついた。アルトスはティオの腕を力で押し返して崩れた土砂の上に転がし、フォースに向かってくる。
その時、少し離れた地面から、白い強烈な光が膨れ上がった。一瞬でまわりが見えなくなる。
術を無効化する術だと、妖精が言っていた光だ。ガッチリ目を閉じたフォースの肩に、惰性で側に来たアルトスが手を掛けた。そのまま引き倒されそうになり、足をかける。
無理な力が掛かった右足に痛みが走り、そのまま一緒にひっくり返った。アルトスの手がフォースの首を探り当て、力を込めてくる。だが光が収まるにつれてアルトスの力が抜けていき、すぐに動かなくなった。
フォースは覆い被さるように倒れ込んだアルトスを横に転がし、光が発せられた方向に声を向ける。
「ありがとう。そっちは大丈夫か?」
「両足をやられていて動けないが大丈夫だ!」
大きく響く声で返事が返ってきた。
「悪い、先に行ってくる。すぐ戻る」
「そうしてくれ!」
返事を聞き、フォースは石室に向かって歩き出した。ティオもついてくる。土砂が山になった部分を過ぎ、足場が平らになったところで走り出す。
アルトスとぶつかったせいで、足の痛みは熱いしびれに変わっている。リディアを助けるまで保って欲しいと祈る以外にない。
行く手に石室の明かりが細く見えてきた。横にずれていた扉を半端に閉めたのだろう。だが、間を通れそうなほど隙間は空いていない。
ドアまでたどり着くと、石室の中が見えた。台の上にリディアが拘束され、そのすぐ側でマクヴァルが何か呪文を唱えている。
開くだろうかと不安に思ったところで、ティオがフッと空気で笑った。その隙間に指を差し込み、腕に力を込める。フォースは剣を抜いて待機した。
ズズッと石が擦れる音が立ち、隙間は簡単に広がっていく。その隙間からリーシャの術が飛び込んできた。もろに食らったティオは、たまらず後ろにひっくり返る。
ちょうど陰にいたフォースは、顔を出したリーシャの腕をつかんで引くと、当て身を食らわせた。起き上がったティオにリーシャを任せて石室へ入ると、手にしていた長剣をマクヴァルに向かって投げる。
マクヴァルは身体を大きく反らして剣を避けた。フォースはマクヴァルと台の間に割って入る。
一瞬見えたリディアの表情がひどく苦しそうだった。そして、その胸に放射状の黒い線があるのが、フォースのまぶたに焼き付いた。
見た目の怪我のひどさで動けないと判断したのだろう、マクヴァルは手にしていた黒曜石の短剣を突き出してきた。フォースがその手首を思い切り払うと、マクヴァルの手から短剣が離れ、少し離れた石の床に落ちる。マクヴァルは間を取ると、フォースの様子をうかがいながら短剣を拾った。
フォースは、マクヴァルを追って、片を付けてしまいたかった。だが、足の傷は相変わらずジリジリとしびれている。リディアの側を離れ、マクヴァルより先に戻れなかったらと思うと、ためらいがあった。
荒い息を立てていたリディアが、うなされるような声でフォースの名を呼んだ。フォースが後ろ手でリディアの手に触れると、リディアは拘束された手で握り返してくる。
「リディアに何をした!」
厳しい目で睨みつけるフォースに、マクヴァルがフッと短く冷笑する。
「まだ何もしていない。シャイア神が降臨を解こうなどと考えるから、シェイド神の力で巫女の身体に縛り付けただけだ」
振り返らずとも、リディアの胸にあった放射状の線が思い浮かぶ。それが神の力なら、シェイド神の降臨を解くことで、拘束も解けるだろうか。これだけ近くにいても、シェイド神からは何も伝わってこない。
唇を噛んだフォースに、マクヴァルが口を開く。
「何も言わず、巫女を私に預けたまえ。私を斬れば、神の力は永遠に無くなるのだぞ? 神の制御のない自然は人に厳しい。お前にも、その巫女にもだ」
確かにマクヴァルの言うように、神がいない世界は厳しいモノになるだろう。だが、誰もが自分の力で生きていく時は、厳しくて当たり前だと思う。人はそうやって生きてきたのだ。マクヴァルはフンと鼻で笑うと、言葉をつなぐ。
「ここに神がいるうちは、今もまだ創世はなされている途中なのだよ。お前がその思い一つで、方向を大きく変えようとしているんだぞ?」
そう言いながら、マクヴァルは自分の胸を押さえ、その手のひらを上に向けた。そこに闇の球体が膨れあがる。フォースは短剣に手を掛けた。
「神から自立するか、神の力で脅され支配されるか、どっちにしたって方向は大きく変わる。どっちを選んだ方がいいかは明白だ」
「脅す? 支配だと? 違うな。神の力は神として使うだけだ。そこにあるのは信仰だよ」
マクヴァルは怒りのせいか目を細め、フォースに向けて大きく膨れたシェイド神の力を放った。フォースはシャイア神の短剣を抜いて、それを剣身で受け止める。短剣の切っ先で、闇が虹の光に吸収されていく。上半身を動かしたせいで、背中の傷が痛んだ。
「都合の悪いモノは滅ぼし、都合がよければ利用する。これが神のすることかっ」
フォースは両手を広げ、ザッと部屋の惨状を見回した。マクヴァルの顔が歪む。召喚された妖精の死体が、そこかしこに転がっているのが嫌でも目に入る。
「あんたが神なら、神の作った何もかも、すべてを愛せるはずだろう。いくら神の力を集め持とうと、あんたは神にはなれない」
「まずは世界の創造が必要なのだ、能書はいらん!」
マクヴァルは左右の手に力の球を作って飛ばしてきた。フォースは飛んでくる闇の球を短剣で受ける。
短剣で決着を付けるには、マクヴァルの側まで入り込まなくてはいけない。足のしびれは強くなっている気がする。ならば、少しでも動けるうちに行かねばならない。
フォースはリディアを握る手に力を込めてからそっと離し、一歩足を踏み出した。
「その怪我で私を殺せると思うのか」
マクヴァルは薄笑いさえ浮かべてフォースを見ている。マクヴァルの目からも、よほどひどい怪我に見えるのだろう。
冷ややかな笑みを浮かべながらも、マクヴァルの顔が緊張に包まれた。それでも充分に自信があるのか、マクヴァルの方からも歩を進めてくる。
フォースはマクヴァルが近づいてくるのを待った。もしもこの場に倒れても、目の前にマクヴァルの足があるなら、そこを攻撃できるかもしれない。
マクヴァルは距離が縮まる最後の一歩を大きく踏み出し、黒曜石の短剣を振り回してきた。左に避けたそこに、神の力を押しつけるように放出してくる。短剣で避けはしたが、今度は黒い石の刃が眼前に迫った。後ろに下がり、なんとかギリギリで回避する。
思うように動けない今の状態では、マクヴァルの攻撃すべてには対処できそうにない。それならばシェイド神の力を無視すればいいのだとフォースは思った。媒体を持つ限りは力を食らう衝撃だけで済む。
マクヴァルは自分が優位だと思ったのだろう、またすぐに短剣を突き出してきた。予想通りに避けた方向へ飛ばしてきた神の力に、フォースはむしろ当たりに行って、マクヴァルと距離をつめる。だが、マクヴァルを斬るには、かすかに踏み込みが足りなかった。
通り過ぎた切っ先の近さに青くなったマクヴァルは、距離を取ってフォースを観察している。
不意にリーシャが通路から飛び出した。後を追ったティオの手がリーシャを捕まえる。たぶん反撃の機会をうかがっていたのだろう、リーシャはティオの手を解こうと躍起になっている。だがティオはリーシャを引き寄せて抱きしめるように拘束した。
「やぁよ! 離しなさいよ!」
「寂しいのは分かるよ。悲しいのも分かるよ」
「大事な人を失ったことなんて無いくせに!」
「あるよ。だから分かるよ。でも、俺の大事な人はフォースとリディアを助けて死んだんだ。だからその人のためにも、彼らは無事でいて欲しいんだ」
「でも私、寂しいのも悲しいのも嫌なのよ!」
「そんな思いをしなくて済むように、これからは俺が守ってあげるよ。だからお願い」
「あんたなんて嫌いよ!」
「嫌いでいいよ。守ってあげる。だから今は」
いきなり子供のような声で泣き出したリーシャの頭を、ティオが一生懸命撫でている。
フンと鼻で笑ったマクヴァルを見て、フォースは短剣を握る手に力を込めた。マクヴァルの身体に傷を付ければいいのではない。マクヴァルを斬らなくてはならないのだ。
シェイド神の力を近距離で受けたフォースのダメージは大きかった。苦痛は一瞬だが行動にも支障が出たのだ。だからこの間はありがたかった。だが動悸は収まっていない。
フォースが肩で息をしているのを見て取ると、マクヴァルは笑ったのか、かすかに目を細めた。
「新しい鏡に封印する最初の一人にしてやる」
やはり鏡は存在しているのだ。だが、封印などされるわけにはいかない。
自分は必ず無事でいなくてはいけない。リディアにほどこされたシェイド神の呪縛を解かなくてはならないのだ。それに、どんなことがあっても、リディアをマクヴァルに渡したりはできない。
自分はきっと、この時のために剣を取ったのだ、とフォースは思う。
最初の動機もそうだった。母の命を守れるだけの強さが欲しかった。母を殺したカイラムが、恨みで剣を手にしなくて済むように、その生活を守る力が欲しかった。
今も同じだ。人に脅威を与える存在を許したくない。この世にいる限り恐怖や恨みから逃げられない、亡霊にも似たマクヴァルを、心落ち着ける場所へと送ってやりたい。そしてなにより、愛する人を、そのすべてを守り通したい。
ここに来るまでは、妖精達の力を借りた。アルトスの力もティオの力もだ。自分の、そして剣の力だけでは、今ここにはいられなかった。
その自分を支えてくれる力もすべて含め、自分が信じるモノを守るだけの力が持てたのか、今ここで分かるのだ。絶対に負けるわけにはいかない。
気を引き締めるために一度ゆっくり息を吐くと、フォースはマクヴァルを見据えた。マクヴァルは右手に短剣、左手にシェイド神の闇を膨張させつつ間を詰めてくる。
切っ先が届くか届かないかのところで、マクヴァルは神の力を放った。短剣で受けつつ黒曜石の剣の行方に集中する。力の陰を通って突き出された黒い剣身に、短剣をぶつけて受けた。黒い破片が飛ぶ。
マクヴァルは舌打ちすると、フォースの目の前に闇を飛ばした。その闇を斬り進んで踏み込むと、フォースはマクヴァルの腰の辺りを薙ぐ。黒い神官服が口を開けた。
よほど焦ったのか、マクヴァルは俊敏に身体を引いた。マクヴァルまでの距離が大きい。フォースが足を踏み出すと、同じように一歩あとずさる。逃げられたら追えない。体勢を立て直されては、対抗できない。
不意に神官服の黒い影が入り口から飛び込んできた。サッとマクヴァルに寄ると、後ろから抱きつく。
「何をするっ?!」
離れようと抵抗してマクヴァルが暴れると、後ろの男は辛そうなうめき声を上げた。ジェイストークだ。
「一緒に死んでもいいっ。行こう、父さん」
「ジェイっ?! 離せっ!」
わめき散らしているマクヴァルの前に、フォースは飛び込んだ。胸の辺りを斜めに斬り上げる。黒い神官服が裂け、かすかに出血しているのが見えた。
その瞬間、マクヴァルの傷から黒煙のような闇が吹き出した。
「うわぁ?! 待て、待ってくれ! シェイドォォォ」
マクヴァルの叫びをよそに、闇は膨張を続け石室を満たしていく。その闇の一部がフォースにまつわりついてきた。皮膚を突き破られているような痛みが身体を覆う。堪えきれずにうずくまり、フォースは石の床に膝をついた。グッと目を閉じ、こぶしに力を込めて痛みが過ぎ去るのを待つ。
ふと肩に手が乗った。見上げると、ジェイストークがそこにいた。
「大丈夫ですか? 神の力がレイクス様に入り込んだように見えたのですが」
「そう、みたいだ」
フォースは息の切れる声で答えた。ジェイストークの顔を見ると、その視線がフォースの足に向いている。
「怪我が治ってきています」
確かに身体全体の痛みを感じなくなってきている。これはシェイド神の力の一部なのだろう。フォースはうなずくと、ジェイストークの手を借りて立ち上がった。
マクヴァルが床に倒れているのが目に入った。気を失っているようだ。
「まだ、生きていますが。どうしたら……」
「もう降臨は解けている。殺さなくても、皮膚を傷付けるだけでいいんだそうだ」
「本当に?! では、これで終わった、……ということですか?」
フォースは浅くうなずくと、リディアのいる石台に向かった。自分の傷はすでに気にもならない。ただ、駆け寄れるまで足が回復していることがありがたかった。
側に行くと、リディアの胸にある放射状に伸びた黒い線が目に飛び込んできた。シェイド神が降臨を解いても、残ったままだったのだ。
「リディア、大丈夫か? リディアっ」
フォースはリディアの手首にある拘束具を外しにかかった。外れると、今度は足首の拘束に取り掛かる。
リディアは自由になった手を胸にやり、黒い線をつかもうと指を這わせた。身体は自由になったが、その黒い筋は肌に刻みつけてあるように見え、糸をほどくようには外せそうにない。
「フォース……」
リディアは震える声でフォースを呼んだ。拘束具を外し終わると、フォースはリディアの上半身を抱き起こす。
「くそっ、どうしたらこれを」
フォースの中のシェイド神が、その質問に答えるかのごとく、まるで動悸のように揺れる。
――我をシャイアに――
シェイド神の声がフォースの頭に響いた。
「渡せばいいんだな?」
思わず声に出して答え、フォースはなんのためらいもなくリディアに口づけた。
ほんの少しの間に癒着してしまったかのように、シェイド神が自分の心ごと千切れる感覚がある。自分の存在が根の部分から消えて無くなりそうな強迫観念にさいなまれる。そのやるせない思いに耐えなくてはいけないのかと茫然とする。
リディアの手が首に掛かり、肩に触れた。その手の動きに、自分はここに存在しているのだと教えられる。その感触に集中することで、気持ちはいくぶん楽になった。
フォースから離れたシェイド神は、口を伝ってリディアに乗り移っていく。少しずつ浮き出てきた呪縛の糸が、皮膚の外に現れてきた。それは液状に戻り、身体を伝って流れ落ちる。何事もなかったかのように、リディアの白い肌が戻ってきた。
自分の中にいたシェイド神がすべて出て行くと、フォースは唇を離した。すぐ側にあるリディアの瞳と視線が合う。
「フォース……っ」
フォースに手を回し、身体を寄せたリディアを、フォースは力の限り抱きしめた。シャイア神の光が膨張と収縮を繰り返しているのが見える。
「大丈夫か?」
「シャイア様が……。戻れないみたいだわ。いらっしゃる場所が、変なの」
リディアは苦しそうに、でも必死で息を潜めている。少し前に体験した神が離れていく感覚を、リディアが感じているのだとフォースには理解できた。
だが、自分が感じたのはあくまでも一部分だけだ。シャイア神がまるまま降臨している上、降臨を解き損ねているのだから、リディアはひどく辛いだろうとフォースは思う。
「リディア」
「平気、平気よ……」
リディアは、心配げなフォースの顔を見てそう言った。だが繰り返している浅い呼吸は、その言葉とは裏腹にとても苦しげに聞こえる。リディアがかき合わせている服の隙間から、白い肌が上下しているのが見えた。
「ジェイ、何かリディアの身体を隠すモノを」
「御意。……、あの、これでもいいでしょうか?」
ジェイストークは自ら神官服を脱いでフォースに渡した。ありがとう、とそれを受け取り、リディアの肩から掛ける。相変わらず虹色の光が、リディアの肌で膨張と収縮を繰り返す。
もしもシャイア神がリディアの身体に戻れないのなら、逆に追い出す以外に方法はないのかもしれない。
「もう少しのあいだ我慢して」
「もう、……少し?」
「降臨を解こう」
フォースの言葉に力なく目を見張ると、リディアは頬を赤らめて微笑み、静かにうなずいてみせた。