レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
   4.道標の先

「そういえば、あちらからの親書は存在するのですか?」
 食事のための部屋から謁見の間に移動する途中、前に立って歩くジェイストークがフォースにねてきた。
「あるよ。持ってる」
 そう返事をすると、フォースはやや後ろを付いてくるリディアに視線を向けた。足元を見ながら歩いていたリディアが、いくぶん硬い表情を上げる。フォースは、微笑みを浮かべたリディアに笑みを返すと、その手を取って引いた。
「でもよく無事で持ってましたね。あの状況の中で」
 振り向かずに話すジェイストークに、フォースは少し足を速めて追いつく。
「先にやらなきゃならないのは分かってたからな。に細工しておいたんだ」
「え? 上半分着けてなかったじゃないですか」
 ジェイストークはそう言うとチラッと振り返る。フォースとリディアがつないだ手に目が行ったのか、サッサと視線を前に戻した。
「一体どこに?」
「いや、だから下半分に。上は結構すから」
 フォースは鎧の一部を二重に作ってあることは口にしなかった。もしかしたらその細工をした鎧職人が、同じ手を使うかもしれない。ジェイストークのことだから、そこまで聞いて探し出すのは容易だろうとは思うが、その時のために少しでも細かな言及は避けたかった。
「結構壊すって。これからは危険なことには首を突っ込まないでくださいね」
 追求されるだろうかと思ったが、ジェイストークが発したのは忠告だった。フォースは思わず苦笑する。
 クロフォードの私室のドアを、フォースは覚えていた。ドアの前に立っているイージスが、こちらに気付き頭を下げる。
 ドアの前まで来ると、気を落ち着けるようにひとつ息をし、ジェイストークはドアをノックした。
「レイクス様とリディア様をお連れいたしました」
 あまり間を空けずにドアが開かれた。そこにのぞいた顔はアルトスだ。
「大丈夫なのか? 怪我は?」
 フォースは思わずそう問いかけた。アルトスはかしこまって頭を下げる。
「いくつか、かすり傷があった程度です」
 そのかすり傷という言葉に、ホッと息をつく。
「ティオがアルトスごとってくれたからか。にしても、よくそれだけで」
「早く入ってこんか」
 部屋の奥からかけられたクロフォードの声に、アルトスはわずかな笑みを浮かべて身体を引いた。フォースがリディアの手を引いたまま部屋に入ると、ジェイストークは廊下に残り、アルトスが中を見張る格好でドアが閉じられる。
 まず年老いた神官が一人立っているのが目に入ってきた。その向こう側のソファにクロフォードが座っていて、後ろにレクタードとリオーネ、ニーニアが立っている。部屋にあまり人を入れなかったクロフォードの態度がずいぶん軟化していると、フォースは大きな変化を感じた。
 フォースと目が合うと、クロフォードは立ち上がり、フォースに歩み寄ってきた。その間に神官がフォースに向かって眉を寄せ、口を開く。
「レイクス様もお人が悪い。影のことを知った時点で教えてくだされば、対処のしようもあったでしょうに」
「無いよ。事実を知ってしまった人間から危険にさらされる。側にいたならなおさら、うわっ?!」
 いきなりクロフォードに抱きつかれ、フォースは息を詰めた。リディアの手が離れ、振り向こうとしたが動けない。
「ちょっ……」
「よく無事に帰ってくれた。しかも、影も払拭してくれた」
 子供として扱われる恥ずかしさに、顔が上気する。フォースはクロフォードの胸を押し返した。
「そっ、それは力を貸してくれた人たちがいたからで、俺は……」
 クロフォードは、少し離れたフォースの顔をのぞき込む。
「本当に無事でよかっ……、なんだ、顔が赤いぞ? 照れてるのか?」
「ち、違っ」
 首を横に振ると、なおさら顔が赤くなった気がして、フォースは黙り込んだ。フォースと離れると、クロフォードはリディアに視線を向ける。
「そなたがリディア殿か」
「はい。陛下」
 リディアは頬をいくぶん上気させ、ていねいにお辞儀をした。顔を上げたリディアに、クロフォードが笑みを向ける。
「これはまたずいぶん……。レイクスが必死になるわけだ」
 なんでも好きに言えばいいと思い、フォースはため息をついた。リディアが困ったように向けてくる視線に苦笑を返す。
「色々とレイクスを助けてくれたようだね。礼を言う」
「いえ。私はただ、したいようにしていただけですから」
 あたたかな笑みを浮かべているリオーネのドレスをしっかりつかみ、ニーニアが目を丸くしてリディアを見ている。同じようにリディアに見入っていた神官の口から、はあ、と肩の落ちるほどのため息がれた。クロフォードが神官に向き直る。
「闇が空に立ちのぼる様を見られているのだ、シェイド神が降臨を解かれたことは既に民衆にも広まっているのだろう?」
「はい。あれだけ大きな異変です、不安を抱えた民衆が多く神殿に押しかけています」
 神官はかしこまって答えた。クロフォードは一瞬だけフォースに視線を向けると口を開く。
「エレンが神の守護者という一族で、レイクスが戦士という位置にあったこと。マクヴァルが呪術を使い、シェイド神を身体に閉じこめていたこと。そしてそれがすべて解決されたこと。事実をそのまま伝えればよい。むしろ喜ばしいことが起こったのだし、隠すと後々面倒になる」
「それはそうなのですが、神官長の選出が……。シェイド神というが消えてしまい、一体神官は何をすればいいモノやら、誰もが見当を付けられずにおります」
 神官にうなずいたクロフォードを見て、フォースはため息がでそうになるのをグッとこらえた。
 マクヴァルはずいぶん長い間、神官長をしてきたと聞く。その地位が当たり前だとされていた人物が消えたのだ、混乱は起こってるべきだろう。その上、変わるのは神官長だけではない。神が降臨しなくなった今、宗教自体も変わっていかざるをえない。
「どうもこうも、誰かにやってもらう以外にない。誰に決まろうとも、神官長一人でどうにかできるはずもないのだから、少しずつ状況を見ながら変えていくしかないだろう」
 クロフォードの言葉に年老いた神官は、再び力の抜けたような息を吐き出した。
「では、もう一度神殿で話し合いを持ってみます。民衆への対応は仰せの通りに」
 深く頭を下げると、神官は部屋を出て行った。アルトスも一緒に退室し、フォースにとっては皇帝の一家に混ざっているような、違和感のある空気に包まれる。
 それでもフォースは安堵していた。事実そのままを伝えてくれるなら、神の子という習わしも無くなるはずだ。これでニーニアを傷付けなくて済む。
 フォースはメナウルの皇帝ディエントからの親書を取りだし、クロフォードに差し出した。
「メナウル皇帝からの親書です」
 大きくうなずき、クロフォードは親書を受け取る。
「座っていろ」
 そう言い残すと、クロフォードは隣の部屋へと入っていった。
 リオーネが、どうぞ、とソファを指し示す。フォースはリディアの手を取って、指示された場所に腰を下ろした。
 フォースがまっすぐ前、ソファの向こう側にいるニーニアに目を向けると、少し不機嫌そうな顔と視線が合った。ニーニアはその視線をリディアの胸の辺りに向ける。その様子を見て、レクタードがニーニアをのぞき込んだ。
「ニーニア?」
「……、大きい」
 ニーニアがレクタードに向けた言葉に、フォースは吹き出した。リディアはわけが分からずキョトンとしている。レクタードが慌ててニーニアと向き合った。
「に、ニーニアねぇ、そういうことは……」
「だって……」
 少し頬を膨らませたニーニアに、リオーネが苦笑した。
「ニーニア? あなたはまだ八歳なのですから。背丈なんて少しずつちゃんと大きくなりますよ」
 その言葉に、フォースとレクタードは思わず視線を交わす。ニーニアは、話しが違うとハッキリ言えずにリオーネに抱きつき、ドレスに顔を埋めた。
「さぁ、お茶を入れてきましょうね」
 ハッとして立ち上がりかけたリディアを、リオーネは、どうぞ座っていらして、と笑顔で制する。リオーネはリディアのお辞儀を見るとニーニアの手を引き、クロフォードが入った部屋と反対側にあるドアの向こうに消えていった。レクタードがフォースの向かい側に腰を落ち着ける。
「久しぶり、なんて気楽に挨拶しちゃまずいかな」
「そんなことない」
 フォースが笑みを向けると、レクタードは安心したようにフッと息で笑った。
「リディアさんとはホントに久しぶりだけど」
 レクタードはそう言って肩をすくめる。
「え? 会ったことが?」
 フォースの問いに、リディアはうなずく。
「ええ。スティアに紹介された時に、一度だけ」
「そういえばそんなことを言ってたっけ。異様に頭に来たのを思い出した」
 その言葉に、レクタードの表情が凍り付いた。その顔を見てフォースは苦笑する。
「ああ、ゴメン。それも今なら全部笑い話にできるなって思って」
 レクタードは、背中が丸くなるほど思い切り息を吐ききった。
「おどかすな。ホッとしたよ。でも本当に二人とも無事でよかった」
 レクタードの微笑みに、フォースは真剣な表情になる。
「だけど、アルトスやジェイがいなかったら、どうなっていたことか」
「いや、フォースを助けられたら本望なんじゃないかな。彼ら、エレン様に仕えていたんだし」
「そうなのか?」
 フォースが目を向けると、レクタードは少し眉を寄せた。
「あ、言ってなかったのか。二人共だよ。しかもエレンさんとフォースがさらわれた時、アルトスがその場にいたらしくてね。それでその怒りや悔しさから強くなったんじゃないかって、何かにつけて噂が流れてたんだ」
 その言葉にフォースは、ふと自分の過去を思った。
 母であるエレンがドナの村で殺された時に剣を取った。戦に直接関わるために。自分の大切なモノを守っていけるだけ強くなるために。エレンが残した、強くなりなさい、誰も恨んではいけない、という言葉を前提にだ。
 アルトスと剣を合わせた時に伝わってくる、あの冷静でいて熱い思いは、確かに怒りかもしれない。その熱さの原点が自分と同じだとしたら、エレンへの想いもたぶん一緒なのだろう。誰も恨んではいけない、というその言葉が無かった分、後を引く辛い思いを断ち切るのは難しかっただろうと思う。
 エレンを殺したカイラムの息子カイリーにドナで会った時、無条件でその剣を引いてくれたのは、アルトスが誰よりもフォースの辛さや悲しみを理解してくれていたからなのかもしれない。
 考え込んでしまったフォースを心配したのか、リディアの手がフォースの腕に触れた。フォースはリディアに笑みを向け、その手を握りしめる。
「そうそう、なんだか気付いていないみたいだから言うけど」
 レクタードは肩をすくめ、イタズラな笑みを浮かべた。
「闇が空に立ちのぼったその日に、虹色の光も天に昇っていったからね。事の顛末を知れば、あの時フォースとリディアさんが何をしていたのか、民衆にまで丸分かりなんだ」
 レクタードの言葉に、フォースは驚きで目を丸くした。リディアは耳まで真っ赤にして片手で口元をう。
「ジェイから報告も受けてたしね。父上が空に登っていく虹色の光を見ながら感慨深そうな顔してて、なにか可笑しかったよ」
「……ったく、なんの報告してんだ」
 フォースはそうつぶやくと、ノドの奥で笑い声をたてる。
「まぁでも、手っ取り早く分かってくれてるってことだ」
 フォースはリディアに微笑みを向けた。リディアはほんの少し目を合わせると、またうつむいてしまう。
「心配いらない。リディアは側にいてくれるだけでいい。必要なことは俺が全部話すから」
 フォースの言葉を聞いて、リディアはうつむいたまま恥ずかしげに微笑んでうなずいた。
 部屋のドアからクロフォードが戻ってきた。立ち上がろうとしたフォースとリディアを手で制すると、リディアの向かい側に落ち着く。
「レイクスがメナウルの皇帝から、並々ならぬ信頼を得ていることがよく分かったよ」
 クロフォードはそう言うと、フォースに満面の笑みを向けた。
「近いうちに休戦協定を結べそうだ」
「本当ですか?!」
 相好を崩したレクタードに、クロフォードは大きくうなずく。
「しかも、皇女の婚嫁にも合意してくれている」
 フォースは顔を上げたリディアと笑みを交わした。クロフォードはいくぶん難しげな表情のままフォースに向き直る。
「だが、レイクスにはまたメナウルに足を運んでもらわねばならん」
「かまいません。何度でも行ってまいります」
 フォースは笑顔のまま、すぐにそう返した。クロフォードはそれを見て苦笑する。
「あまり嬉しそうに言われると、また複雑なんだが」
「あ、いえ。メナウルへ行けるからではなく、この手で戦をやめさせることができると思うと」
 フォースの言葉に、クロフォードの頬がいくらか緩んだ。その頬を、クロフォードは再び引き締める。
「実は、レイクスにはルジェナ・ラジェス領を統治して欲しいのだよ」
「統治? ですか?」
 いきなりの言葉に、フォースは狼狽の色を隠せなかった。そのまま受け入れるには、せないこともたくさんある。
「あそこは確かタウディ殿が」
 その名前を聞き、レクタードがフォースに向かって眉を寄せる。
「フォースがメナウルに行っている間に、伯父を拘束して領地も剥奪したんだ。ああ何度もだと、さすがに見逃すわけにはいかなくて」
「現在は仮の領主を立ててある。お前はあの辺りでは名も知れているし、国境付近にいてくれることでメナウルとの関係緩和も期待できる」
 確かにメナウルとの交渉ごとには役に立てるかもしれないとフォースは思った。だが、それだけではどうにもならない。
「しかし、統治など。まるきり何も知らない状態では」
「いきなりすべてをやれとは言わない。補助役も相談役も付ける。追々覚えてくれたらいい」
 昨晩はジェイストークに、皇帝の跡を継げとうるさく言われた。それよりはクロフォード本人の方が態度が穏やかだ。ホッとはしたが、どこか疑わしくもある。
「それでお役に立てるのでしたら、そうさせてください。ルジェナに住めるのならメナウルに近いですから、リディアも安心できるでしょうし」
「まぁ、いつまでも領主というわけにはいかないがな」
 そう言って浮かべた苦笑で、クロフォードはジェイストークと同じく自分を皇帝にしようと考えているのだろうとフォースには想像がついた。やはり、あきらめてはいなかったのだ。
「私は根本からメナウルの人間だということを、父上は分かってくださったのだとばかり思っていたのですが」
 フォースがため息混じりに言った言葉に、クロフォードはまっすぐな視線を向けてくる。
「言ったではないか。お前はエレンが残してくれた私の息子だ。何をどう考えようと、どんな行動を起こそうと、それは変わらん」
「しかし。皇帝を継ぐのにレクタードは申し分なく」
 フォースはレクタードにも視線を向けたが、レクタードはわずかに笑みを浮かべただけで何も言おうとはしなかった。同じくレクタードをチラッとだけ見やり、クロフォードはフォースに向き直る。
「いや、タウディのこともあるし、リオーネがエレンの拉致に関わってしまっているのも事実なのだ。それを責めようという気持ちはないが、あまりにも大きいのだよ」
「リオーネ様のことは、にしなければそれで」
 そう言ったフォースに、クロフォードは表情を引き締めた。
「隠し事があってはならんのだ。あとでどう跳ね返ってくるか分からん。リオーネを守るためにも、公にしてしまうことは必要だ」
 確かに、事実を知ったあとにレクタードが皇帝になっても何ら問題はないが、逆にレクタードが皇帝になってから事実が知れてしまったら、騒ぎは大きくなるだろう。
「それに、お前はシャイア神と一緒に影からライザナルを救った英雄なのだよ」
 その言葉に反論できず、フォースは口をつぐんだ。だが、これから世界は変わるのだ、いつまで英雄でいられるかは分からないとフォースは思う。
継承のことは、今すぐどちらと決めんでもいいと思っている。だが長子はお前だ。特に国民には知らせず、皇位継承権一位のままで通しておく」
 クロフォードはそこで一度大きくうなずき、さらに口を開く。
「今回領地を治めてもらうのも、実地訓練だとでも思ってくれたらいい。それでよいな?」
 その実地訓練にルジェナ・ラジェス領というメナウルとの国境が選ばれたのは、フォース自身がメナウルの人間だと思っているからこそ半端なことはできないと分かっているからなのだろう。
 このままうなずき続けたら、たぶん間違いなく皇帝の地位が待っている。フォースは黙ったままのレクタードに視線を向けた。
「何か言えよ」
「私は父上に従います」
 予想通りの答えが返ってきて、フォースは吐き出したいため息をこらえた。フォースの真剣な様子を見て、レクタードはククッとノドの奥で笑う。
「だってスティアと暮らせるんだ。あまり忙しいのもな」
「はぁ? てめっ、何ボケたことぬかしてんだ?!」
「素に戻ってるよ。兄上」
 そう言って笑っているレクタードが、腹の中で何を考えているのかは分からない。だが、どちらが継ぐなど、実際その時になってみないことには話し合いようもないのだ。
 皇帝という地位には、確かに魅力がある。自分の手で神と切り離した世界を、自分の力で守っていけるなら、どれだけの努力も惜しくはない。
 もちろん、簡単ではないことも分かっている。フォースには、リディアにも様々なしわ寄せが行くだろうことが一番の問題だった。
 だが。皇帝という立場になくても、努力はすればいいのだ。むしろ今までのように大きく動けるのは間違いない。
 フォースがリディアの心情をうかがうように視線を向けた時、リオーネとニーニアがお茶を持って戻ってきた。
 フォースの前にはニーニアがお茶を置いた。ありがとう、とフォースが礼を言うと、ニーニアは無言で小さくお辞儀を返す。
「ああ、それと」
 クロフォードはリディアに笑みを向けると、すべてのお茶が置かれるのを待たずに、フォースに向かって口を開く。
「さっさとリディア殿との婚儀り行わないとならん」
 許しを得ようと思っていたところにその言葉だ、フォースは呆気にとられてクロフォードを見つめた。リオーネとニーニアが部屋の奥へ移動するのをチラッと見て、クロフォードはフォースと向き合う。
「夕焼けの空を闇が覆ったのも印象深かったが、日が落ちて光が立ちのぼったのは、さらに衝撃的だったからな。事情は聞いて知っているが、このまま話も出ないのでは妙な噂にもなりかねん」
 真剣に話すクロフォードから顔を逸らし、レクタードは笑いをこらえている。フォースはその様子を見て、クロフォードが何を話しているか、ようやく頭の中に入ってきた気がした。
「従来通りマクラーンでと思ったが、ルジェナがいいだろう。領主もやってもらうことだし、メナウルの王子に出席いただければ、ついでに休戦協定も結んでしまえる。メナウルに入る前に、準備を進めるよう指示しておけばいい。戻ったらすぐに婚儀だ」
 クロフォードは言葉を切ると、身を乗り出すようにしてしげな顔をフォースに近づける。
「どうした? なぜ何も言わん?」
「い、いえ、そうさせていただけるのなら、それで……」
 フォースはそう答えると、うつむいているリディアの顔をのぞき込んだ。リディアは恥ずかしげにフォースと目を合わせるとわずかに微笑んでうなずく。クロフォードがポンと手を叩いた。
「よし。それで決まりだ。式はどちらの国の流儀でもよいぞ。ルジェナの神殿には、洞窟を作り付けてはいないから、ライザナルのやり方は略式でしかできんしな」
 願ってもないほど自分に都合のいい提案に、フォースは不気味な思いが湧き上がってくるのを感じた。だが、それを口にするのははばかられるし、本気で歩み寄ってくれているのなら断るわけにはいかない。
「ただ、式後は一度マクラーンに来てもらうよ。民衆に披露目をしなければならん」
 そのクロフォードの言葉にも、まだ何か妙に釣り合いが取れていない気がしたが、交換条件が付いていたことが分かると、フォースはいくらか安堵した。分かりました、と礼をすると、クロフォードは満面の笑みで大きくうなずく。
「これで少しは肩の荷が下りたよ。エレンに何もしてやれなかった分、お前を幸せにしてやりたいのだ」
 フォースはその言葉に笑みだけ返した。自分はすでに充分幸せなのだと思っている。様々な過去があったからこそ、今があるのだ。
 ライザナルで産まれたことも、メナウルで育ったことも。神の守護者という一族の血を引いていることも、ライザナル王家の血が入っていることも。
 だからこそリディアと出逢うことができ、神からも戦からも守り通せるのだろうから。どこか一つが欠けていたら、今こうしてかげりのない幸せを手に入れることは、できなかっただろうから。
 リディアはフォースに笑みを向けると、身に着けていたペンタグラムを取り出し、手のひらに乗せてクロフォードに差し出す。
「これをお返しします」
 クロフォードはそれを見て目を丸くした。リディアに一瞬だけそのままの視線を向けると、その石を受け取る。
「これは。私がエレンに贈った石か? そなたが持っていてくれたのか?」
「元はレイクス様がお守りとして持っていました。こちらに来る時に私のお守りと交換しましたので、それからは私が」
 リディアがそう答えると、クロフォードは、そうか、とうなずいてその石に見入った。
「これを、私に?」
「はい。元々エレン様の石ですから陛下にお返しすることに。レイクス様と相談して決めました」
 リディアにその名前で呼ばれるのが、フォースにはくすぐったく感じた。その名前を自然に呼んでくれるのは、ライザナルでこういう立場にいることも、違和感なく受け入れてくれているのだろうと思う。
 クロフォードは、ため息のような、だが笑みを浮かべて大きな息をつくと、リオーネを振り返る。
「しまっておいてくれ」
 その言葉を聞くと、リオーネはクロフォードの側まできて、そのペンタグラムを受け取った。
 リオーネは部屋の奥まで行くと、鏡の前にある宝石箱のフタを開け、中に入っていたいくつかの宝飾品を横のトレイに置いて、空いた宝石箱にペンタグラムをそっと入れた。それを見つめていたクロフォードは優しい笑みを浮かべ、礼をしたリオーネに、ありがとう、と声を掛ける。
 クロフォードには母エレンがいなくても、もう大丈夫だ。支える家族もいて、今は幸せなのだとフォースは思った。
 自分がいなくてもレクタードが皇帝を継げば、それですべて丸く収まるだろう。いくら自分が第一子でも、神の子などという、あってはいけない慣習が絡んでいるのだ。しかも、自分もリディアもメナウルの人間なのだから、やはりレクタードが皇帝を継ぐのが一番だと思う。
 だが、今それをわざわざ表明しなくてもいいのかもしれない。実際自分が国境にいれば、メナウルとライザナルにとって、なにかと便利ではあるし潤滑剤にもなれる。しかも自分が前に立つことで、リオーネやタウディの悪い噂の印象も薄れることは間違いない。
 二つの国が上手くやっていけるようになってから、そこであらためて皇帝とは別の道を選べばいいことだ。
 これからの世界がどう変わるのか、それが自分の評価に大きく関わってくる。フォースは、自分が影からライザナルを救った英雄のままでいられるとは、どうしても思えなかった。その頃にはリオーネやデリックの事件も忘れられているだろうし、クロフォードの心情も変化しているかもしれない。すべては変わっていくのだ。
「では、メナウルへ向かう準備をいたしますので、これで」
 フォースはそう言って席を立ち、リディアの手を引いた。クロフォードもレクタードも立ち上がる。
「疲れているだろう。メナウル行きは、せめて疲れが取れるまで休んでからにしろ」
 クロフォードの言葉に、フォースは頭を下げる。
「ありがとうございます。では、三日ほど休ませていただいてから発ちます」
「気が早いなぁ。そんなに早く結婚したい?」
 レクタードの苦笑に、フォースは笑みを返した。
「スティアに早く会いたいだろ?」
「そりゃあ」
 弾みで返事をしたのか、それだけ言うとレクタードは乾いた笑い声をたてる。
「ルジェナに付いていってもいいかな」
「もちろん」
 フォースがうなずくと、今度はクロフォードが顔を向けてきた。
「私たちは、お前達の婚儀に間に合うように出立することにするよ」
 フォースは、はい、とうなずくと、リディアとていねいなお辞儀をして、クロフォードの部屋を出た。