レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
   2.居城

 心地よく揺れる馬車の窓に、騎乗したアルトスが馬を寄せてくるのがフォースの目に入った。アルトスは中をのぞき込む。
「じきルジェナに、?」
 アルトスは、フォースの向かい側に座っていたソーンが窓の側に立ったのを見て言葉を切った。ソーンがアルトスに向かって腕でバツを作り、人差し指を口に当てたのだ。
 リディアがフォースの肩にもたれ、腕を抱きしめるように抱えて寝息を立てている。ソーンはリディアを起こさないように気を使ってくれたに違いなかった。小声で、ありがとう、とソーンに伝える。ソーンは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「もうすぐルジェナに入ると言いたかったのだと思います」
 やはり小声で伝えてきたソーンに、フォースはうなずく。肩が揺れたかと顔をのぞいたが、リディアは変わらない寝息を繰り返している。
 馬車の揺れに弱くて眠たくなってしまうらしく、リディアは馬車にいる半分くらいの時間を眠って過ごしている。こうして寝顔を眺めていられることが嬉しかったし、いつもソーンが一緒に乗っているので、退屈にもならず快適だった。
 ただ、夜寝ていないのかと勘ぐられることが多くて閉口していた。そんなことすら、どうでもいいでは通じないらしい。だが、それさえ世継ぎがどうのと周りに言われることがない分、もしかしたら気分的に楽なのかもしれない。
 結婚からせつかれていたら、さぞや大変だろうと、フォースはサーディを思い浮かべて苦笑を漏らした。ソーンが声を潜めて笑ったことに気付き、顔を上げる。
「レイクス様、何を思いだして笑っているんですか」
 見られていたことに気付き、フォースはさらに苦笑した。
「いや。リディアがいてくれて、よかったと思って」
「僕も嬉しいです。レイクス様がお幸せそうで。レイクス様とルジェナで会えた時は、とても寂しそうでしたから」
 確かにソーンと再会した時は、リディアと最低な別れ方をして数日だったので、気持ちは最悪だった。精一杯虚勢を張ったが、ソーンにさえ元気がないと言われてしまった。
 その時とは気持ちがまるきり正反対だ。フォースはリディアの寝顔に笑みを向けた。
「レイクス様にはリディア様が、僕の目で見るよりも、もっと綺麗に見えてるんでしょうか」
 フォースにそう声をかけながら、ソーンの目はリディアを見つめている。
「どうかな。ソーンにどう見えてるのかは分からないからな」
 フォースの言葉に、ソーンは難しげな顔で考え込んだ。
「僕も好きなのかな」
「え」
 フォースは、思わずソーンの顔をマジマジと見つめる。
「だって、もっと綺麗な人なんて、見たこと無いですよ」
 赤面しそうなセリフを、逆に子供らしいと思う。これはこれで本人に向かって言えば、いい口説き文句になるだろう。
「でも、あるんだよね。もっと綺麗が」
「ええ?! レイクス様にリディア様より綺麗に見える人がいるだなんて」
 ソーンの声にリディアがほんの少し眉を寄せ、うぅん、と声を漏らした。ソーンが慌てて自分の口をふさいでいる。
 リディアは頬をフォースの肩にすりつけるように首を動かすと、大きく息をついてまた元の寝息を立て始めた。ソーンは安心したように息を吐き出す。
「こんなことリディア様に知れたら大変です」
「そうじゃない。前に見たときより綺麗だって、リディアを見るたび思うんだ」
 キョトンとした眼で聞いていたソーンは、ホッとため息をついた。
「よかった。リディア様のことだったんですね。なんだかホッとしました」
「きっといつか、ソーンにもそんなふうに思える人ができると、?」
 気が付くと、ソーンはニコニコと満面の笑みを浮かべてフォースを見ている。
「何?」
「一緒の馬車に乗っちゃって、僕、やっぱりお邪魔でしたよね」
 何を言い出すのかと、フォースはソーンに苦笑を向けた。
「別にそんなことはないよ」
 フォースは否定したが、ソーンは肩をすくめて申し訳なさそうな顔をする。
「実は、馬車の中で日除けのカーテンを閉めてラブシーンなんか展開されたら困るから、僕に一緒に乗れってジェイストーク様に言われたんです」
「……、ああ、そう」
 ソーンの言葉に吹き出しかけ、フォースはようやくそれだけ返事をした。ジェイストークがそんなことまで心配しているのかと思うと妙に可笑しい。バラしちゃった、とソーンは頭をいている。
「いや、ソーンがいてくれてよかったよ」
 だが、確かにソーンがいてくれた方が気が紛れていいのかもしれない。
「どうしてですか?」
 ソーンが真剣に返してきた問いに、フォースは思わず口ごもる。
「いや、どうしてって……。あ、こうして話せるしさ、退屈しないでいいだろ」
 フォースが浮かべた苦笑の意味が分からず、キョトンとしていたソーンが、あ、と窓の外に視線を移した。
「ルジェナの街が見えてきました。もうすぐ居城の敷地に入ります」
「え、居城? 見たことがあるのか?」
 その言葉の響きに眉を寄せ、フォースは聞き返した。ソーンは首を横に振る。
「いいえ。門と門番の家は見たことがありますが、建物は見えないんです」
「城壁が高いのか?」
 そう口にしている時、馬車の左手、建物の隙間からチラッと見えた防壁は、ヴァレスを囲う防壁よりも明らかに低い。
「それもありますけど。門から中をのぞいても、居城は見えませんでした」
「まさか、見えないほど敷地が広いとか……」
 フォースの問いに、はい、とソーンが元気にうなずく。その声にリディアが少し眉を寄せる。フォースはリディアの寝顔と向き合った。
「リディア、もうすぐだよ。リディア?」
 リディアはゆっくりと目を開き、眠りから完全に覚めていない顔で、フォースを見上げてくる。
「もうすぐ?」
 うなずいたフォースを見て、リディアは窓の外に視線を向けた。先頭の馬車から次々と左の道へと入っていくのが目に入る。両脇には、ゆったりと間の空いた平屋建ての家々が並んでいた。
 その間が少し小さくなった辺りで、前方に門が見えてきた。その手前、左右に対照的な形の邸宅が建っている。
「あの二件が門番の家です」
 ソーンが指差した先には、周りの家より明らかに大きな家があった。その後方は防壁と繋がっているように見える。リディアは、門番? と聞き返し、キョトンとその邸宅を見ている。
 門扉が門番の手によって左右に大きく開かれた。いったん速度を抑えた馬車がその間を通り抜け、再び速度を増していく。両脇に木が植えられた並木道になっていて、降り注ぐ木漏れ日がチラチラと輝いている。
「レイクス様、リディア様、綺麗な道ですね。あ、川が見える!」
 夢中になって窓の外を見ているソーンの言葉に、フォースはリディアと視線を交わすと、身体を窓に寄せて前方を眺めた。左側の並木が切れた向こうに水面が見える。道はそれなりの幅のある川にぶつかり、大きく右に曲がった。左手前方に石橋が見えてくる。
 国境に近いのにイヤにのどかだと思ったが、門を越えて攻め入るにはこの川は邪魔になる。主になる侵入経路が石橋だけなら守る方の戦略は立てやすい。フォースはこの居城を守るため、逆に攻め入る方法を頭の中で考えていた。
 その石橋を通ると、双塔の城門がある城壁らしい壁が見えてきた。見えている限りは堀で取り囲まれていて、やはり水が張ってある。土地があるだけに、防御する施設は限りなく作ることができたのだろう。
 跳ね橋が降りる音が聞こえてきた。すぐに先頭の馬車がその橋を通って行く。ここを馬車で通れるのだから中はまだ広そうだとフォースは思った。
 その門の内側に、フォースは目を見張った。堀どころの話しではない、大きな湖になっているのだ。見回してみて、双塔の城門がある場所自体がすでに島のようになっていることに初めて気付く。
 そこからまっすぐな橋でつながれた湖の真ん中には、居城の外壁と数本の尖塔が見えている。他に、低い壁に囲まれ、居城から一定の距離を置いて浮かぶ大きな島が二つ見え、それぞれが橋で繋がっていた。
 城への道は真ん中の橋以外、迷路のようにも見える。攻め入る算段など、誰もが一瞬で放棄したくなるだろう。
「凄いわ。綺麗……」
 城への橋の上で、リディアがやっとそれだけ口にした。ソーンはまだポカンと大きく口を開けたまま固まっている。
「いったいどこを限定して一番小さいなんて言ったんだ」
 思わずボソッとつぶやき、ため息をつく。これでは私設の軍くらいなら敵にもならないだろう。攻めてやると言っていたウィンのことを、逆に哀れにすら思う。
 もう一つの跳ね橋を通って外壁の中に入ると内外壁があり、その門をくぐるとようやく居城が姿を現した。
 白っぽい石でできている壁に、日の光が反射して美しい。建物の高さはないが幾本かの尖塔があり、いくらかマクラーン城に似ている。尖塔が多い部分は、神殿なのだろう。
 内外壁に囲まれてはいるが、内外壁までの際まで手入れされた庭が広がっていて、ゆったりと建てられているように見えた。
 馬車が城館の前、出迎えの人々が列を作った端で止められた。アルトスの手によって馬車の扉が開けられる。フォースは先に降りて振り返り、リディアの手を取った。
「お前が従者に見えるぞ」
「かまわない」
 頭を下げたまま言ったアルトスの言葉にそう返し、フォースは深くお辞儀をした人々の前を城館入り口へと向かう。ソーンは後ろから遠慮がちに付いてきた。
 入り口の扉が開かれると、その正面に黒いローブを着た背の低い人が立っていた。思い切り場違いな雰囲気だが、なぜかその場所に溶け込んでいる。顔に刻まれた深いシワが、笑みを形作った。
「二人とも、元気そうだねぇ」
「たっ、タスリルさんっ?! なんでここに?」
 盛大に驚いてしまってから、フォースは自分の大声を止めるように、手で口を覆った。あ、ばあちゃん、と後ろからソーンの小声が耳に届く。フォースは気を落ち着けるように一息ついて、再び口を開いた。
「も、もしかしてタスリルさんが、仮の領主……」
「そうだよ? おかしいかい?」
 いえ、とフォースは慌てて首を振り、リディアと視線を合わせた。リディアはフォースに微笑んでみせると、タスリルの所へ足を進めて笑顔で抱き合う。
「お元気そうで、なによりです」
「お前さんもね。本当によかった」
 タスリルの手が、リディアの背中をポンポンと優しく叩く。
「レイクスもせっかちだね。もう降臨解いちまったのかい」
「は? いえ、でも、……、はい」
 言い訳を一つも言えず、結局フォースはうなずいた。半分降臨が解けた状態じゃなくても、きっとリディアを抱いていただろうと思う。リディアが頬を染めたのを見て、タスリルは、ヒヒッ、と短く笑った。
「いや、事情は聞いてるよ。素直だね、めてあげるよ」
 褒めてなど欲しくないと思いながら、フォースはソーンを振り返った。こっちへ来いと手招きをする。
「挨拶だ」
「はい!」
 ソーンは嬉しそうに返事をすると、タスリルの前まで進んだ。
「ばあちゃん」
 満面の笑みを浮かべて言ったソーンの髪を、タスリルはクシャクシャと撫でる。
「ソーン、大きくなったねぇ」
「うんっ。ばあちゃんも、ここでお仕事?」
「そうだよ」
 タスリルとソーンを見ていたフォースの側に、リディアが戻ってきた。リディアが後ろに逸らした視線を追って、ジェイストークが近づいてくることに気付く。
「タスリルさんならタスリルさんだと、教えてくれればよかったのに」
 フォースはジェイストークに苦笑を向けた。
「ここで知っていただいた方が、面白いかと思いまして」
 笑みを浮かべたままのジェイストークに冷笑を向けながら、フォースは驚いてしまった自分を腹立たしく感じる。
「メナウルでの予定や、挙式のこと、これからこちらでやっていただくことなどお話があります。どうぞこちらへ」
 そう言うとジェイストークはフォースを城の奥へと促した。タスリルはジェイストークを引き留めると、ソーンとリディアを呼び寄せる。
「二人で探検しておいで」
「しかしまだイージスが来ておりません」
 入り口を気にしつつ言ったジェイストークに、タスリルは、大丈夫、と笑みを浮かべた。
「使用人の一人一人まで厳選してある。術まで使ってね。城の人間だと知れる前に、少しでも接しておくといいよ。後々役に立つ」
 はい、と嬉しそうに返事をして、ソーンはリディアに視線を向ける。
「リディア様、行きましょう」
「でも、……」
 フォースを振り返ったリディアに、タスリルはノドの奥で笑い声をたてた。
「レイクスは瞳の色でバレちまうからね、二人で行っておいで。その間にメナウルに入国する日時を決めて、向こうに最終的な報告をしておくよ」

   ***

 いつヴァレスに行けるのかは気になったが、後でフォースに聞いてみればいい。そう思い、リディアはタスリルの言うことを聞いて、ソーンと二人で城の中を見て回っていた。
 外観の豪華さだけではなく、城内も絵画や壁画、金糸銀糸が織り込まれた壁の布地などの装飾で溢れ、どの部屋でも目を見張ってしまう。足を止めてじっくり眺めたいモノもあったが、ソーンが先を急くのでリディアはその後を追いかけるようについていった。
「そんなに急いだら、戻る道が分からなくなっちゃうわ」
「迷子になったら人に聞けばいいです」
 ソーンはそう返してきたが、まだ一人として人に会ってはいない。聞こうにも聞く人間がいないのだ。
「ソーン、待って」
「リディア様、早く」
 ソーンは左手にあるドアを開けた。そのままそこに立ちすくむ。
「ソーン?」
 追いついてドアの中をのぞくと、三人の女性が掃除をしているところだった。寝室のようだ。ドアに一番近いところで棚を拭いていた女性が顔を上げた。
「おや! ソーンじゃないか!」
「おばさん!」
 側まで行ったソーンを抱きしめ、その女性はソーンの頭をグリグリと撫でた。
「元気だったかい?」
「全然元気だよ!」
「いい服着てるじゃないか」
 ソーンが嬉しそうに笑いながら部屋を出て行くと、その女性はリディアに視線を向けてくる。
「新しく来た人かい?」
 無視してソーンを追いかけることもできず、リディアは、はい、と軽く頭を下げた。
「あの、この部屋は」
「領主様の寝室だよ。さっき到着されたそうだから、しっかり掃除しておかないとね」
 そう言うと、手にした雑巾で再び棚を拭きはじめる。
「その格好じゃあ、綺麗すぎて掃除も頼めないよ」
「あ、お気遣いすみません。このままでかまわないです」
 リディアは部屋を見回すと、置いてあるバケツに歩み寄った。中に入っている雑巾を取り出して絞る。
「あんた、もしかして領主様狙いかい?」
 不意にかけられた言葉に、リディアはうろたえた。
「え……。そういうのって、本当にあるんですか?」
 絞った雑巾を抱きしめて、リディアは女性に問い返す。
「違うのかい? 綺麗にしてるから、てっきりそうだと思ったよ」
 冷めた笑いを浮かべ、女性はリディアに向き直った。
「まぁ、領主様はお若いんだそうだから、あんたくらい綺麗なら上手くいくかもしれないよ?」
 どう返事をしていいか分からず、リディアは苦笑した。ただ、今のやりとりでは本当にありそうだと思い、不安が増してくる。
「あれ? レイクス様!」
 ドアの外側にソーンの声が響いた。
「お話しは済んだのですか?」
「粗方済んだところで抜けてきた。いっぺん休ませろってんだ。次から次へとまったく」
「リディア様を探してこられたんでしょう?」
「え。……、ああ、まぁ」
 フォースの返事に、ソーンが楽しそうな笑い声を返している。
「ばあちゃんが大丈夫って言ったら大丈夫ですよ」
 タタタと駆け寄ってくる音がして、ソーンがドアから顔を出した。
「レイクス様がお越しです」
 その言葉で女性達がオロオロしだし、壁際に集まっている。
「さぁ、新入りさんも早くこっちに来て頭を下げて。新しい領主様が」
 女性がリディアの手を取った。そこにフォースが入ってくる。
「なにやってんだ?」
「あ、フォース。早かったのね。まだなんにもしてないわ」
 フォースの後ろから、ソーンも部屋に入ってきた。
「おばさん? この人リディア様だよ?」
「ええっ?!」
 女性は驚いてリディアの手を放す。リディアはていねいに頭を下げた。
「リディアと言います。これからよろしくお願いします」
「ソーン! それを早くお言いよ!」
 女性が慌てて深々とお辞儀を返してくる。
「し、失礼しました。あ、あの、どうかお許しを」
 その状況に、フォースはリディアに視線を向けた。
「リディアに何かしたのか?」
 リディアに向けられた問いだったのだが、女性は身を凍らせてフォースを見ている。リディアは慌てて首を横に振った。
「違うの、私が名乗らないで掃除をしようとしたから気にしてくださっているんだわ。だから、むしろ私が謝らなきゃならないの」
 ごめんなさい、と、リディアは女性に頭を下げ、手にした雑巾をフォースに見せた。
「それに、まだ雑巾を絞っただけなのよ?」
 フォースは苦笑すると、顔を引きつらせている女性に向き直り、軽く頭を下げる。
「驚かして申し訳ありません。責めるつもりは無かったのですが」
「い、いえ、とんでもございませんっ。私こそ無礼なことを……」
 女性は頭を下げっぱなしになっている。
「どうかお気になさらずに」
 フォースがもうひとこと声をかけた時、開いたドアにノックの音がした。ジェイストークだ。
「レイクス様、ちょっと」
 フォースは、失礼します、と言い残してドアへと向かう。半分頭を上げた女性の耳に、リディアは少しんで口を寄せた。
「知られても怒ったりはしないと思いますけれど、さっきのは秘密にしましょう」
「リディア様」
 女性は胸の辺りで両手を組み、涙目でリディアを見つめてくる。リディアは軽く頭を下げた。
「これから、どうぞよろしくお願いします」
「い、いえ、こちらこそ誠心誠意働かせていただきます。なにとぞよしなに」
 リディアは肩に手を置き、顔を上げた女性に笑みを向けた。やっとその表情が緩む。
「これは私が」
 女性は笑顔でリディアの手にした雑巾を受け取る。
「リディア?」
 フォースの声に振り返ると、すでにすぐ側まで駆け寄ってきていた。二、三歩歩み寄って向き合う。
「これから、ここと隣に荷物を搬入するらしい」
「隣?」
「リディアの部屋だよ」
 思わず部屋を見回したが、出入り口以外にドアは見えない。まるきり別個の部屋だと、誰が出入りしても分からないだろう。掃除の女性の心配は、こういうところにもあるのかもしれないし、もしくは前の領主に浮気の前例でもあったのだろうと思う。
「で、事後承諾で悪いんだけど、メナウルに行っている間に、そこにドアを作ってもらうことにしたよ」
 フォースが指差した壁を見て、リディアは思わずクスクスと笑った。
「え。変?」
「そんなこと無いわ」
 リディアが肩をすくめると、掃除の女性がホッと胸をなで下ろしている。やはり予想通りだったのだろう。
「それと、リディアの部屋の方、入り口のドアをふさいじゃったら駄目かな」
 フォースの言葉に、息をついてうつむいたままだった女性が、丸くした目をフォースに向けた。その顔が可笑しくて、リディアは笑いを飲み込んでから顔を上げる。
「それは嫌。巫女の部屋みたい」
「やっぱり駄目? って、それはまだ頼んでないけど……」
 心配なのか不満なのか、眉を寄せたフォースに、リディアは笑みを向けた。
「鍵をかけて、その鍵を預かって。それなら嫌じゃないし、私も安心だわ」
「ホントに? じゃあ、そうさせて」
 パッと明るい顔になったフォースに、後ろからジェイストークが、レイクス様、と声をかける。
「ドアをふさいでしまっては、イージスが入れません」
「あ。そうか」
 そのやりとりを、掃除の女性がにこやかに見ていることが、リディアには嬉しかった。少しは緊張がほぐれたのではないか、いい印象を持ってくれたのではないかとホッとする。
「ここで見ていたら搬入の作業がしづらいだろうから、城内でも回ってこよう」
 リディアが、はい、と返事をすると、ソーンが目を輝かせて部屋をのぞき込んできた。ジェイストークが苦笑を向ける。
「ソーンはここで立ち会わなくてはなりません。どこに何があるか、しっかり覚えてください」
 ソーンは一瞬不機嫌な顔になったが、わかりました、としっかり返事をした。フォースがソーンに笑みを向ける。
「どうせ一度に全部は無理だ。時間ができたら三人で見て回ろうな」
「はい、レイクス様」
 元気よく返事を返したソーンにうなずき、フォースはリディアの方に手を伸ばした。その手を取り、リディアはもう片方の手でソーンに、あとでね、と手を振る。
 そのまま部屋を出た。ジェイストークが何か指示をしているのが後ろから聞こえる。気になって振り返ると、フォースに手を引かれた。
「その場にいたら、気を使わせてしまうらしい。まかせた方がいいよ」
 はい、と返事をして、リディアはフォースと指をからめた。そのまま歩を進める。
「どこに行くの?」
「とりあえず上かな。奥にも階段があるからそこからあがろう。眺めがいいそうだし」
 湖の真ん中にある城だ。一番上から周りを見たら、今まで眺めたことのない景色が広がっているだろうと思う。
「どこから行けるの?」
「この辺にあるはずなんだけど」
 歩きながら二人で階段のありそうな場所に視線を巡らせる。
「あそこの、へこんだところか? 結構あるな」
 フォースの呆れたような声に、リディアは苦笑した。
「どこが小さいのかしらね」
「見取り図を見せてもらったんだけど、何気なく載ってる一つ一つの部屋がでかいんだよな。天井も高いし」
 言われて上を見上げる。天井は神殿の講堂のように高く、両脇には大きな照明器具が、一定の距離を置いて並んでいる。前方に戻した視界に、ようやく階段が見えてきた。
「建物の中なのに、散歩をしているみたいね」
 不意に足を止めたフォースに、つないだ手を引かれて向き合う。見下ろしてくる顔に、笑みが浮かんだ。
「でも、これだけ広けりゃ、どの部屋に行こうが二人でいられる」
 微笑んでうなずいたリディアの頬に、フォースの手の暖かな体温が添えられる。
 視界の隅で小さな影が動いた。フォースと二人で振り返ると、掃除の女性ともう一人、部屋の場所からこっちを見ている。思わず二人で声を潜めて笑い合う。
「行こう」
 手を引かれて階段へと入った。女性から影になり、見えなくなっただろう場所で、いきなり抱きすくめられる。頬と、そして唇に、フォースの唇が触れた。
 抱きしめられる腕の強さに、触れてくる唇の優しさに、身体の奥が溶けていくような安心感がある。合わせているフォースの身体から、鎧の冷たさではなく体温が伝わってきて、胸の中に熱を溜め込んでいく。離れた唇の間から吐息が漏れた。
 微笑みを交わして階段を上がる。リディアはフォースの一段後ろを上った。手を引いてくれる力が心強い。
「ヴァレスに発つのは三日後だよ。ここからならその日のうちに着く」
 振り返って言ったフォースの顔を見て、自然と笑みがこぼれる。
「早くみんなに会いたいわね」
「ああ」
「ブラッドさんにも会いに行きましょうね」
「そうだな」
 その返事がいくらか緊張しているように聞こえ、どうしたのだろうかと、リディアはフォースが口を開くのを待った。
「シェダ様とミレーヌさんにも、お会いしなきゃならない」
 その言葉を聞いて、リディアは少しホッとした。父シェダは城都にいるはずなのだ。
「それはまだ考えなくていいわ」
「いや、ヴァレスにいらっしゃるんだそうだ」
 思わず足が止まった。フォースがもう一度振り返る。
「父がヴァレスに? どうして?」
「たぶん、リディアの無事な姿を見たいんだと思うよ。城都の家には来るなって言った手前、普通に会えるのはヴァレスだろうから」
 自分のノドが、ゴクッと音を立てた気がした。足が動かない。
「きっとまた罵倒されるわ」
 そう言って言葉を詰まらせたリディアの横にフォースが並んだ。フォースはつないだままの手を引き寄せ、指にキスをする。
「かまわないよ」
「でも、……」
 シェダがフォースを悪く言う言葉を、どうしても聞きたくないとリディアは思う。
「大丈夫。そんなことより、どうにかしてジェイやイージスのいない状況を作らないと、シェダ様の命が危ないかもな」
 その言葉に、リディアは思わず目を見張った。そうなのだ。フォースの立場は前の時と全然違う。
 ふとフォースを見ると、困惑している自分に微笑みを向けていた。その微笑みで、いつの間にかシェダを心配している自分に気付く。
「そういう状況は作るし、シェダ様を大事にしたい気持ちくらいは伝わるよ」
 そうだといい、と思いながら、リディアはうなずいた。フォースの唇を手のひらにも感じ、激しくなった動悸を押さえてフォースを見上げる。
「じゃあ。行こう」
 膝の裏に腕を差し込んでいきなり横向きに抱き上げられ、リディアは息を飲んだ。首にしがみついた腕の間に顔を隠すように埋めると、フォースは階段を上りだす。
 状況は変わっている。でもきっとシェダは、また何かひどいことを言うだろうと思う。
 許しを得るためだけに、フォースを傷付けたくはない。それを思うと、恐怖すら感じてしまう。フォースの首に回した手に、無意識に力がこもった。
「何も心配いらないよ。言っただろ? 俺はリディアさえ側にいてくれるなら、なにを言われても全然平気だ」
 その言葉でリディアは、城都でのフォースの態度を思い出した。罵倒されても怒りを微塵も見せず、けんか腰になった自分をただ見守ってくれていた。
「反対してくれて、俺にはむしろ幸運だよ。それだけリディアとの絆も深まる。意地でも離れないって思ってもらえる」
 リディアは思わずフォースを見つめた。穏やかな表情がそこにある。
「それに、いくらなんでも五、六回も行けば、怒るのも面倒になるだろ。子供ができたりしたら、見せびらかしにも行ってやろう」
 その言葉で、顔に出さずにフォースらしく怒っているのかもしれないとリディアは思った。可笑しさに自然と笑みが溢れてくる。フォースの表情にも微笑みが浮かんだ。
 光が差し込み、フォースはまぶしそうに光の方向に視線をやった。塔の上まで来たのだろう。
 身体を抱いた方の手で支えられながら、足をそっとおろされる。光を振り返ったリディアの視界に、乱反射する水面が飛び込んできた。引き寄せられるように塔の端まで足を進める。
「凄いわ……」
 城を囲む湖が輝き、森の緑が風に揺れている。その向こうにディーヴァの山々も、美しく青い肌をさらしていた。フォースを振り返ると、真面目な顔で周りを見回している。
「どうしたの?」
「あ、いや。ウィンが私設の軍でも作って攻めてくるとしたら、どんな策をとるだろうかと思って」
 その意外な言葉に、思わずキョトンとフォースを見つめた。
「でも、私設の軍なんて規模じゃ無理だよな。結婚式にでも呼べば分かってくれそうだけど、どこにいるんだかな」
 フォースなら本当に呼びそうだと思うし、ウィンという人なら本当に偵察に来そうだと思う。だが前に会った時からすでに、二人の間に憎しみは感じない。
「来てくれるといいわね」
 そう言って湖に視線を戻すと、後ろからフォースに抱きしめられた。ぬくもりが背中から伝わってくる。
 幸せがどんどん大きくなっている。それを伝えたくて振り返った唇に、フォースの唇が重なった。