レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
3.立脚
ルジェナを発ったのは朝方だった。フォースとリディアの馬車には、いつも通りソーンともう一人、ジェイストークが乗っていた。
ルジェナからはアルトスの隊と入れ替わり、テグゼルの隊がフォースとリディアの護衛に付いている。イージスはその護衛の隊の中にいた。
さらにメナウルに入ったところからは、フォースの隊にいた兵士達が周りを固めた。率いているのは城都で城内警備をしていたグラントだ。ただ、その中にアジルとブラッドの姿は見えない。
道すがらグラントに聞いた話しによると、アジルとブラッドは神殿警備に当たっているとのことだ。そして、リディアの両親シェダとミレーヌは神殿にいるらしかった。
シェダとミレーヌを城都から連れてきたのはグラントなのだそうた。シェダはヴァレスの神殿に仕事があるとのことだったが、神官長になってから今までにヴァレスに来たことなど一度もない。リディアに会いたいから来たのだろうと、グラントも考えているらしかった。
怒鳴りつけても力ずくでも何をしても、すでに表立って結婚の反対すらできないことは、シェダも分かっているだろうとフォースは思う。それだけこちらの立場が大きく変わっているのだ。
だからといって、ライザナルの皇族という立場で押し切るようなことはしたくないと、フォースは思っていた。あくまでもシェダには、一人の男として認めてもらいたい。
リディアも緊張しているのか、見覚えのある景色が嬉しいのか、馬車の中でも眠り込まずに起きていた。
リディアの膝掛けの下で、フォースはリディアと手をつないでいた。ジェイストークやソーンにはバレているとは思うが、ずっとそのまま放さずにいる。
物々しい警備の中を通り過ぎる、メナウルには無い飾りが付いた馬車は、ヴァレスに入ってからさらに人目を引いた。だが開きっぱなしにした窓には、見覚えのある顔が二つある。特に騒ぎにもならずに街中を進んでいた。
馬車はヴァレスでの滞在先になる、元々ルーフィスとフォースが住んでいた家に向かっている。馬車の窓に騎乗したテグゼルが近づいてきた。
「失礼いたします。あちらの騎士が、先に神殿に寄ってはどうかと申しているのですが」
テグゼルの向こう側には、同じく騎乗したグラントが見え隠れしている。
「分かった。そうしてくれるか?」
「御意」
テグゼルは敬礼をすると、列の先頭へ向けて馬を進めていく。まっすぐ視界に入ってきたグラントが、薄く笑みを浮かべた。
街の中心に向かって馬車が進んでいく。向かう方向を指示して戻ってきたテグゼルを、フォースは呼び寄せた。
「護衛は神殿に入らないで欲しい」
「そんなわけには」
眉を寄せたテグゼルに、フォースは苦笑を向ける。
「ここだけでいいんだ。後はすべてまかせるから。ジェイには一緒に行ってもらう。頼むよ」
テグゼルはジェイストークと視線を交わして小さくうなずくと、御意、とひとことだけ残して元の位置へと戻った。ジェイストークが顔を寄せてくる。
「神殿に入る時に、追い出したりしないでしょうね?」
その言葉に、フォースは苦笑を向けた。
「まさか。一緒に入ってくれていい。けど」
「けど? なんですか?」
ジェイストークは、訝しげにフォースの顔をのぞき込んでくる。
「中での会話や行動一切を、誰にも漏らさないで欲しいんだ」
理由に思いついたのか、ジェイストークはしっかり一度うなずくと、笑みを浮かべた。膝掛けの下でつながれたリディアの手に、ほんの少し力がこもる。フォースはリディアの手をそっと握り返した。
神殿の鐘塔が近づいてくる。速度を落とした馬車の列は、神殿の正面でキッチリ止まった。
テグゼルが開けたドアから、フォースは一番先に降りて振り返り、リディアに手を差し出した。たぶんアルトスのように従者に見えると文句を言いたかったのだろう、テグゼルとジェイストークが眉を寄せた視線を交わしている。それを無視し、フォースはリディアと一緒に神殿裏へと足を向けた。
「ど、どこに行くんですか?」
後をついてくるジェイストークが、少し上擦った声をあげる。
「裏だよ」
そう答えてから、正面でなくてはマズいのかと思い当たった。だが、結婚の許しを得に行くのに神殿正面から入っていくのは気が引ける。フォースは気付かない振りで先を急いだ。
神殿に来るならここからだと思っていたのだろう、扉の左右に、アジルとブラッドが見える。懐かしい顔に頬が勝手に緩む。アジルとブラッドからも、今にも大声で笑い出しそうな笑顔が返ってきた。
「ブラッドさん。よかった……」
リディアが小さく感激に震える声を絞り出すと、ブラッドは笑みを浮かべたまま礼を返した。アジルとブラッドは、敬礼をして扉に手をかける。
「行ってもいいですかね? ライザナル」
扉を開けながらアジルが言った言葉に、フォースは後ろのジェイストークに気付かれないよう、親指を立てて見せた。
開いた扉の間から、こちら側を向いたソファに座っているシェダとミレーヌが目に入った。
「では、ここでお待ちしています」
振り返って見ると、ジェイストークは扉の向こう側から敬礼を向ける。その姿をさえぎるように、後ろの扉が閉められた。
ライザナルの人間がいるというだけで、シェダに対する脅しになってしまう。それを理解してくれたのだろうと、フォースはジェイストークに感謝した。
フォースはあらためてシェダと向き合うと、ていねいにお辞儀をした。腕を組んでいるリディアの手に力が入る。
「二度と来るなと言ったはずだ」
顔を上げる前から、シェダに声をかけられた。立ち上がったシェダに対し、フォースは姿勢を正して口を開く。
「ここはヴァレスです。シェダ様の邸宅ではありません」
「バカな理屈を」
わざわざここまで来ておいて何を言うのか、理屈をこねているのはどっちだ、と返したくなるのを、ノドの奥にグッと力を込めてこらえる。
「何度言われても許さんぞ」
しかも、何も言っていないうちからこれだ。引き留めようと上着の裾をつかんだミレーヌの手をどけると、シェダは階段の方へと歩を進めていく。
「あきらめません。リディアさんをいただくこと、どうかお許しください」
フォースはもう一度頭を下げた。シェダは短い息を一つついて振り返る。
「許さんと言っただろう」
「シェダ様に許しをいただけないと、リディアさんの中にしこりが残ってしまいます」
フォースの言葉に、シェダはさらに不機嫌な顔になった。
「君はそれが私のせいだとでも言うのかね」
「そうは言っていません」
フォースの言葉にミレーヌは、でも実際はそうなのよね、とつぶやくように言うと、シェダから視線を外し、反対側を向く。
「お前は黙っていろっ」
さすがにミレーヌの言葉を無視できなかったのだろう、シェダは階段を上りかけていた足を止め、取って返した。
「君も、しこりが残るなどと思うなら、リディアに関わらなければいいだろう」
正面に立ってフォースを指差したシェダを見て、リディアはシェダに背を向け、フォースに抱きつくように寄り添う。
「私は勘当された身です。フォースと別れるくらいなら、お父様に関わらない方を選ぶわ」
「だったら、なぜこの男はお前がまだ私のモノのような口をきくんだ」
シェダはリディアの後頭部にそう言うと、フォースに視線を移した。フォースはまっすぐその目を見つめる。
「戦のこともシャイア神のことも見通しが付きました。ここまでは叶ったんです。シェダ様にお許しをいただくこと、あきらめられません」
「君があきらめようがあきらめまいが、そんなことは関係ない」
シェダは不機嫌に視線を逸らした。その視界に眉を寄せたミレーヌが入ったのか、バツが悪そうに視線を戻す。
「リディアさんが幸せでいられる場所を手に入れたいんです。残り半分はシェダ様のお許しがいただけない限り、手に入りません」
「は、半分だとっ?!」
声を大きくしたシェダが見開いた瞳に、フォースは思わず見入った。声に驚いたのか、リディアの腕に力がこもる。
「きっ、君は私のことを、シャイア神からリディアを取り返すのと同じくらいの面倒だと思っているのかね!」
続く大声に、リディアがフォースの肩口に顔を埋めた。フォースはリディアの背に腕を回して抱きしめ、視線はしっかりとシェダに向ける。
「いえ、面倒だなどとは。ただ、リディアさんが辛い思いをするなら、私に何ができるかと」
シェダは頬を引きつらせて大きく息を吸うと、空気をすべて吐き切るだけのため息をついた。
「だいたいな、あの時はまだ非常に危険な状態だった。神官長としてはともかく、親として許すわけにはいかなかった」
「はい」
フォースは素直にうなずいた。危ない目に会わせてしまったらと思うと、自分でも連れて行かない方がいいかもしれないと思ったくらいだ。引き留めたいと思う気持ちはよく分かる。
「ひどいことを言うと思ったかもしれんが、あれは今でも本気だ。立場も環境も変わったが、君がライザナルの王族ならばなおさら、今まで以上に面倒はついて回る」
「分かっています」
騎士は職業だが王族なのは血だ。逃れられるモノではない。
「だから、……、まぁ相手が誰であれ、一度は反対しようと思っていたのだが」
「は?」
フォースが呆然と見つめたシェダは、肩をすくめて軽く息をつくと、苦笑を浮かべた。リディアはキョトンとフォースを見上げる。
「簡単に一緒になられて、簡単に別れられたのではリディアが傷つくからな」
リディアはフォースと視線を交わすと、シェダを振り返った。
「今回のこともそうだが、私の反対など砂粒ほどの障害にも感じないほどのことを二人で乗り越えたんだ、このまま許さずにいる訳にもいかんだろう」
何を言われているのか飲み込めるまでに一息の間がかかり、フォースはあらためて驚いた顔をした。シェダはワハハと空気が抜けるような笑い声をたて、あーあ、と声に出してため息をつく。
「それにだね、くださいなどというのは、降臨を解く前に言うセリフだろう」
何か返事をしなければと思っていたフォースは、ウッと言葉に詰まった。リディアを抱いている腕が、身体の細かな震えを伝えてくる。
「もう好きにしたまえ。君ならどんな状況でも、リディアの幸せを一番に考えてくれるだろう」
シェダは力の抜けた笑みを見せた。ありがとうございます、とフォースはシェダに頭を下げる。ミレーヌが涙ぐんでいるリディアに穏やかな微笑みを向けて立ち上がった。
「だが、一つだけ条件がある」
「はい」
シェダの言葉に、フォースは一体何かと真剣に向き合った。シェダはフォースに向かってため息をつき、不安げに振り返ったリディアに視線を向ける。
「リディア、お前、絶対一人は娘を産め。この男に娘を嫁に出す寂しさを味わわせてやらねばならん」
思わず吹き出しそうになったフォースにシェダは眉を寄せ、ムッとした顔を突き合わせた。
「今、笑ったな?!」
「い、いえ、あの……」
本気で困っているフォースの肩口で顔を隠し、リディアはクスクスと笑っている。
「あなた。もういい加減になさってくださいね」
そう言いながら側に来たミレーヌに、リディアは抱きついた。ミレーヌは愛おしそうにリディアの頭を撫でながら、フォースに視線を移す。
「ありがとう」
その言葉に安堵して頬を緩ませ、フォースはミレーヌに頭を下げた。シェダは鼻先で笑うと、ミレーヌを無視するように目を逸らす。
「何が、ありがとう、だ」
「あら。リディアのことで逃げずにあなたと向き合ってくれる人がいるなんて、思ってもみませんでしたもの」
しれっとして言ったミレーヌに、シェダは何も返せずため息をついた。ミレーヌに送り出されるように、リディアはシェダと向き合う。
「お父様……」
まだ不安げにしているリディアを、シェダは引き寄せて抱きしめた。ポンポンと背中を叩く。
「幸せになるんだよ」
「私もう、ずっと前から幸せです」
リディアは優しい瞳を向けてくるシェダに微笑みを返している。ケンカをさせずに済んでよかったと、フォースは胸をなで下ろした。チラッとだけフォースと視線を合わせたシェダが、リディアの顔をのぞき込む。
「……、お前をそいつに返さなきゃ駄目かね」
その言葉にギクッとする。リディアも驚いたのか、少し離れてシェダを見上げた。
「ええ。返してください」
苦笑して返したリディアの言葉で、シェダはすでにリディアを自分にまかせてくれているのだと気付く。
「お父様とお母様がいてくださったからフォースに会えたんです。感謝しています」
リディアはシェダにそう言うと、フォースの元に戻ってきた。リディアは嬉しそうに微笑んで見上げてくる。フォースは抱きしめたい気持ちを抑えてリディアの頬を撫で、その手を肩に置いた。
「会わせるために育てたわけじゃないんだがなぁ」
つぶやくように言ったシェダに、ミレーヌがいさめるような視線を向ける。
「と、ところで、これからの予定は?」
ミレーヌの様子を気にしながら、シェダがフォースに口を開いた。
「はい、城都へ行ってまいります。そのあとルジェナへ戻って、居城の神殿で結婚式を」
「式を挙げるのか!」
嬉しそうに目を見開いたシェダに、リディアがうなずく。シェダは気が抜けたように、かすかに眉を寄せた。
「そうか。それは良かった……」
口調が暗いシェダを、リディアが心配げに見つめる。
「お父様?」
「いや、あちらの形の式となると、な」
シェダは顔を上げると苦笑した。シャイア神に仕える神官長なのだ、やはりシェイド神の儀式には抵抗もあるのだろう。
だが、式はメナウルのやり方と決まっているのだ、何も問題はない。フォースがうなずいてみせると、リディアはシェダに笑みを向けた。
「メナウルのやり方で挙げることになってます。シャイア様に誓えるんです」
「そうなのか?! どうしてまた……」
シェダは疑わしげに目を細くする。フォースは思わず苦笑した。
「希望を言う前からこちらの理想に添って提案してくれたんです。二国間に早く休戦協定を結ぼうという関係もあって、急ぐことに」
本当はついでに休戦協定をと言われたのだが、それは黙っていることにする。シェダは、そういうことか、とため息をついた。
「野合はいただけないが、結局は都合がよかったというわけだ」
婚儀の前に通じるのは確かにいいことではないが、降臨が半分解けた状態で式が終わるまでそのままというわけにはいかないだろう。その言葉はシェダの目一杯の嫌味なのかもしれないとフォースは思った。
「お父様? 野合ってなに?」
リディアがシェダに聞き返した。シェダは何と答えていいか見当が付かないらしく、リディアの微笑みを目の前に、慌てふためいている。
廊下から、やぁ、と手をあげながらグレイが入ってきた。フォースは助けを求めるようなシェダを無視してグレイに駆け寄る。
「グレイ、元気そうでよかった」
「そりゃ、こっちのセリフ」
握手をして、肩を叩き合う。見慣れているはずの顔が懐かしく、安心感もあって、本当に帰ってきたんだという気持ちになる。
「みんな元気だったか?」
「元気だよ。あ、でも、ここのところタスリルさんが店にいなくて」
グレイの心配げな顔に、フォースは苦笑した。
「タスリルさんならルジェナにいるんだ。実質タスリルさんが領主で、俺は領主見習いみたいなもので」
「教育係か。ってことは、結構お偉いさんだったんだ?」
グレイがポカンと開けた口を見て、フォースは肩をすくめる。
「そうらしい。いや、ライザナルでの母のことを知っていたんだから、偉くて当たり前なんだ。気付かない方がどうにかしてた」
フォースの言葉に、グレイはポンと手を叩き、そうだよ、と大きくうなずいた。
「何ともない普段通りなつもりでいても、頭が混乱していたんだな」
グレイにうなずきながらフォースは、混乱というよりもリディアのことばかり考えていたことを自覚して可笑しくなった。でも、たぶん自分はそれでいいのだと思う。ノドの奥で笑ったフォースに、グレイが苦笑した。
「何笑ってんだか。そうそう、サーディとスティアはルーフィス様の護衛で城都に戻ったよ。隣国の皇太子を受け入れる準備だそうだ」
一瞬の間を置いて、自分がその皇太子だと気付く。なんとか挙式の日に休戦協定を取り付けてしまいたい。フォースは気を引き締めるように深呼吸をしてうなずいた。
シェダに解放されたのか、リディアが側に立つ。
「グレイさん」
「よかったね」
グレイの笑みにお辞儀をすると、リディアはフォースに向き直った。
「ねぇ、フォース? 野合ってなに?」
その言葉にフォースは思わず吹きだしそうになる。結局シェダは、はぐらかしてしまったのだろう。グレイはそっぽを向いて笑っている。
「おいっ、君は教えんでいい。教えるなっ」
ソファのところから声を張り上げたシェダを、ミレーヌが止めている。シェダの言う通り、その言葉が婚儀を経ずに密かに男女の関係になることだなど、自分が教えるには確かに怪しいことだと思う。
だが実際は、含みも何もなく密かですらなかったのだから、フォースにとってそんな雰囲気は気にもならなかった。
「分かったな? 返事をしろっ」
相変わらずなシェダにかすかな冷笑を向け、フォースはリディアの耳元で、後でね、とささやいた。
***
城都の中心に建つ城が大きく見えなかったのは、ライザナルにある数々の城を見てきたからなのだろう。城の中もそうだ。ライザナルの城と比べたら、装飾も照明も調度品も、きらびやかというよりは落ち着いた雰囲気を醸し出している。
いつもならサーディと二人で歩いた廊下を、リディアとスティアも一緒に歩いている。今はそれぞれの護衛付きで、フォースにはジェイストーク、リディアにはイージス、サーディにはルーフィス、スティアにはグラントが就いていた。
廊下の壁は人で埋まっていた。ライザナルの皇太子がフォースだと知って驚く者、目が合って笑い出しそうになる者、目配せをしてくる者など、それぞれ様々な反応を返してくる。
中には完全に無表情な者、冷たい笑みを浮かべる者、睨むように鋭い視線を向ける者もいる。フォースは、視界の隅でその感情を受け止めながら、ただ毅然として見えるように心がけた。
謁見の間のドアが開かれる。その向こうには廊下よりも多くの人、そして正面の席にはメナウルの皇帝ディエントがいる。一礼して入室すると、フォースはディエントの前まで進んで深く礼をした。
「レイクス殿、こちらへ」
ディエントの声にもう一度礼をして側まで行くと、ディエントは立ち上がってフォースを迎える。
「休戦協定、及び皇女の婚嫁についての親書を、クロフォードより預かってまいりました。どうぞお受け取りください」
フォースは手にした親書をディエントに差し出した。ディエントは大きくうなずいて親書を受け取る。
「次期皇帝であるレイクス殿が出向いてくださるとは」
その言葉に、フォースは思わずディエントを見つめた。その顔が笑みで満たされる。
「フォースとしての話しも聞きたいのだが、よろしいか?」
はい、と頭を下げながら、フォースは身体の余計な力が抜けた気がした。ディエントが立ち上がる。
「では奥に」
フォースはディエントに、奥の部屋へと促された。ジェイストークが不審げに眉を寄せるのを視線で制し、フォースはリディアと控え目な笑みを交わす。
「申し訳ないが、少しお待ちいただきたい」
そう言い残し、ディエントは先に立って歩き出した。フォースはその後に続く。
奥のドアから廊下に出て、その隣にある応接室に移動していく。ディエントは見張りの騎士に部屋の外にいるように言い付けて入室した。フォースが部屋に入ると、廊下の騎士がドアを閉める。
「王家の暮らしには慣れたか?」
そう問いを向けながら、ディエントはまっすぐ部屋の隅にある小さな机に向かい、ペーパーナイフを取り出して親書を開封している。
「いいえ。恥ずかしながら、まだ何かにつけて戸惑いが」
フォースの答えに、ディエントは苦笑した。封書から中身を取り出して、ディエントはフォースに視線を向ける。
「まぁそれは仕方がないか。私も家具の配置が変わるだけで戸惑う」
その言い様に、フォースの緊張がいくぶん緩む。
「今は何を?」
「はい。ルジェナ・ラジェス領を統治するようにと」
「そうか。覚えるには実施が一番だ。それ以上に、君が国境近辺にいてくれるのはありがたい」
笑みで目を細めてそう言うと、ディエントは開いた親書に視線を落とした。文面に目を走らせながら、うなずいている。
「私が生きているうちに終戦を迎えることができそうだ。次期皇帝の婚礼と合わせて休戦協定を結ぶというのは名案だな。どちらもが記憶に残る」
フォースは黙ったまま礼をした。次期皇帝という言葉がどうしても引っかかる。
「スティアの婚嫁に関しては、その時に決めてくれればいい。協定にも婚嫁にも異存はない。ルジェナにはサーディに行ってもらうことにするよ。話し合いのため、スティアも一緒にな」
「ご賛同ありがとうございます」
これで休戦協定は結ぶことができそうだ。フォースは安心感から、息を吐き出すと共に深く頭を下げた。視界にディエントの足元が入ってきて顔を上げると、視線を向けてくるディエントと目が合う。
「ライザナル皇帝の地位は君が継いでほしい。メナウルの人間は誰もがそう望んでいるよ」
フォースはその言葉に目を見開いた。なぜその話が出てきたのか疑問に思う。ディエントはかまわず言葉をつなぐ。
「君とサーディなら密に連絡を取り合うことも可能だ。もしまた何か問題が起こっても、大きな争いは回避できるだろう」
何も言えないままのフォースに、ディエントは苦笑を浮かべた。
「まだ王族としての自覚もないだろう君が迷うのも分かる。だが、第一王子が継ぐのは自然なことだ。君が辞退してしまったら、むしろ問題は大きくなる」
もしかしたら、親書に何か書いてあったのかと、フォースは思わずディエントの手元に目をやった。
「これも、君だからできることなんだが」
ディエントはそう言うと、心情を察したのだろう、親書を開いたままフォースに差し出す。フォースは受け取ることを辞退した。ディエントが手渡そうとしただけで、親書にその話がないことは明らかだと思う。
見透かされているのだ。ディエントもルーフィスと同じように、自分を見守ってくれていた。すべてを分かってしまっているのだろう。
「君は影からライザナルを救った神の守護者であり英雄でもあるだろうから、なおさら皇帝に就くように望まれているだろうね」
「はい。ですが、英雄などと呼ばれるのは、きっと今だけです」
その言葉に、ディエントの頬が緩む。
「君らしい考え方だ。まぁ、噂と同じようなものだろうからな。もしこの先つらい世になれば、神を切り捨てた暴君と呼ばれるかもしれん」
ハッキリと言葉で聞くと、自分はそれを怖れているのだと、フォースにはよく理解できた。ディエントは優しい微笑みを浮かべたまま言葉をつなぐ。
「神が不在の時代に入ったこの世界が、どう変わっていくか。すべてはそこに掛かっているというわけだ」
はい、と軽く頭を下げながらの自分の声が、フォースの身体にかすれた音で響く。
「だが。世界を変えるのは君だ」
その言葉に息を飲み、フォースはディエントを見つめた。
「どう変わるかではない、変えるのだ。君はそういう立場にいるんだよ」
ディエントは主君として尊敬し、心服してきたメナウルの皇帝だ。その人がその立場で言った言葉に、フォースは疑おうという気持ちすら微塵も持てなかった。
確かにディエントは変えてきたのだ。守っているといっても、子供の頃のメナウルがそのままここにあるわけではない。
自分のことに限っても、騎士としての教育を受けることになったのが、ディエントの命令によるものだった。それがなければ、今ここに親書を持って来ることは、できなかっただろう。一つ一つ乗り越える力が持てたのも、ディエントの援助がなければありえなかったのだ。
「君がメナウルにとって脅威になっては困るが、あくまでも君らしく、騎士としての強さは持ち続けて欲しい」
騎士という言葉にハッと我に返り、フォースは姿勢を正した。
リディアを守っていくために皇帝にならないというのは間違いなのだ。自分のできるすべてのことをするためには、世界の変化を流れに委ねてしまうわけにはいかない。
ディエントはフォースに大きくうなずいて見せる。
「君が越えてきた今までのすべては、決して無駄になることはない。私は君ならできると思っているよ」
「ありがたきお言葉にございます」
フォースはディエントに深く礼をした。
今の自分はただの騎士だとフォースは思う。母の命を守れるだけの強さが欲しかった。人々の生活を守る力が欲しかった。だから騎士になろうと思った。それしか手段を知らなかったその時のままだ。
それは皇帝になるからといって捨てなくてはならないわけではない。むしろもっと大きく関わっていけることは間違いないのだから。そしてそれこそが、リディアを守っていくための大切な手段にもなる。
自信など少しもない。だが、その時が来るまでに、まだたくさんのことを重ねていける。できるできないで悩んでいても始まらない。ただやってみるしかないのだ。
視線を上げたフォースに、ディエントは微笑みを浮かべた。
「そろそろ戻らなくてはな。君の家臣が焦れていそうだ」
そう言ってディエントは部屋のドアを開け、謁見の間へと歩を進めていく。その背中を見ながら、フォースは自分の迷いが収まっていくのを感じていた。