レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
   4.婚礼

「リディア、もう準備できたかしら。行ってみない?」
 スティアの声が明るく響く。椅子でくつろいでいたレクタードは、その声を聞いて視線を窓の外からスティアに戻した。
「寄ってから行きましょう。きっと綺麗だわ」
 スティアの正装したドレス姿は、レクタードの目にとても美しかった。微笑むと微笑みが返ってくる、手を引かれる、そのぬくもりを幸せだと思う。
 立ち上がる勢いのまま、スティアを抱きしめ口づける。離れた顔から笑みがこぼれた。軽いキスが頬に返ってくる。
「行こう」
 ええ、とうなずいたスティアと腕を組んで歩き出す。向かうのは花嫁の控え室だ。
 ルジェナ城は他の城と比べて小さく、タスリルが作った警備がしっかりしていることもあり、それぞれに護衛がいらないのが気楽で嬉しい。
 今日は内城壁の外側が一般に開放され、料理が振る舞われているのを城の塔から見た。このあたりでここまで大きな祭りはなかっただろう。羽目を外す奴も出てくるだろうと思うが、それでも個々の護衛は必要ないらしい。
 この幸せな状況は、ほとんどフォースがつかんだのだと理解している。それは自分が一番でいること、つまりはフォースを暗殺する方を選ばなかった時、同時に決まったことだ。
 そのせいか、まるで夢を見ているようだとレクタードは感じていた。そして、これでよかったのだと心から思う。影も払拭され、民衆も明るい。神の守護者という血を持たない自分には、どうやってもできなかったことだ。
 でも、これからは自分の手で守っていかなくてはならないモノがある。
「そうそう、リディアの方が断然綺麗だって噂を聞いたのよ? もう、分かってるのに、どうしてそういうこと言うのかしらね」
 そう言ったスティアの表情は、陰りのない笑みを浮かべたままだ。レクタードは苦笑を返した。
「みんながみんなそう思うワケじゃないだろ。それに俺はスティアの方が可愛いと思ってるんだし。それじゃ足りない?」
「ううん、全然足りるわ。でも、綺麗じゃなくて可愛いなのね」
 クスクスと笑うスティアと笑みを交わす。その次の瞬間に、スティアの顔に陰りが差した。感情をまっすぐ伝えてくる表情がどんなものでも、レクタードの目には魅力的に映る。
「そういえばね、兄が私の立場を殉国だなんて言うのよ? 犠牲だなんて、やめて欲しいわよね」
 殉国という響きに、なるほどと思う。確かにお互いが知らない間柄だったとしても、両国の友好のために結婚させられたかもしれない。
「いいんじゃない? これ以上ないってくらい幸せな殉国にしてあげるよ」
 嬉しい、と言いながら、スティアが抱きついてきた。キスを交わして微笑み合う。思わず人目が気になってあたりを見回し、また二人で押し殺した声で笑った。
 部屋のドアの側で、シェダがうろうろと行ったり来たりしているのが目に入ってきた。スティアは少し足を速める。
「シェダ様、落ち着かないんですね」
 その声に振り向いたシェダが、レクタードとスティアにお辞儀をした。
「いらしてくださいましたか。ええ、もう式を待つだけなのですが、まだ何かあったのではないかと気が気ではなくて」
 シェダはそう言うと、張り付いたような笑みを浮かべ、ドアを開けた。
「どうぞ、お入りになってください」
 部屋にいたリディアの母であるミレーヌが気付き、深く頭を下げる。スティアはていねいにお辞儀を返してレクタードの手を取ると、中に入った。
 その手がするっと離れ、レクタードはスティアの駆け寄った先に目を見張った。窓から差し込んでくる日差しに照らされ、一瞬リディア自身が光り輝いているように見えたのだ。
 フワッとく結い上げられ、リボンと花飾りで飾った琥珀色の髪で、光がキラキラと遊んでいる。見え隠れするうなじは、どこまでも白くなだらかでつややかだ。しっかり化粧をした顔はあでやかさと優美さを両方兼ね備えていて、外見上、皇太子妃として非の打ち所はどこにも無い。
「リディア、すごく綺麗よ!」
 リディアは立ち上がって迎え、スティアはリディアを抱きしめた。生成りが目に柔らかな、長いドレスがフワッと揺れる。
「ごめんなさい。本当ならもっと早くフォースのお嫁さんだったのに、私のせいで……」
 リディアは首を横に振った。
「こんなに幸せなのは、スティアのおかげもあるの。感謝してるわ」
 スティアの頬に涙がつたうのを見て、レクタードはハッと我に返った。歩み寄ってスティアの手を取る。
「ほら、ドレスを汚したら大変だよ」
「そうか。そうね」
 スティアはレクタードに向き直ると涙を拭いた。その顔をじっと見ていて、ふとリディアが嬉しそうに目を細めて二人を見ていることに気付く。顔が赤くなった気がして、レクタードは息で笑い、肩をすくめて見せた。
「リディアさん、その姿、フォースにはもう見せた?」
 リディアが軽く首を横に振ったのを見て、スティアが引き継ぐ。
「メナウルではね、その日神殿に入るまで、当人同士は会えないことになっているの」
「そうなんだ?」
 聞き返したレクタードにうなずき、スティアはいたずらな笑みを浮かべる。
「ねぇ、フォースを茶化しに行きましょう?」
「でもリディアさんに会ってないんじゃ不機嫌かもな」
「だから面白いんじゃない。リディアがとっても綺麗だって、たくさん話してあげなきゃ」
 そう言うとスティアは、あっけにとられているリディアに小さく手を振った。
「じゃあ、頑張ってね。後でね」
 リディアのあきらめたような苦笑に見送られて部屋を出る。入れ替わるようにシェダが中に入っていった。
 隣にあるフォースの部屋の方向を見て、廊下を歩いてくるアルトスが目に入った。式まで会わないということは、先にフォースを迎えに来たのだろうか。アルトスが歩み寄ってくる。
「レクタード様、スティア様、そろそろ神殿へお越しください」
 分かったとうなずいて見せ、レクタードはスティアの手を取った。
「父上は?」
「すでに、いらしております」
 アルトスが頭を下げた向こうでドアが開いた。宝飾を身に着けたフォースと、その後ろからナルエスが部屋を出てくる。スティアが一度吹き出してから、レイクス様、と、うやうやしく頭を下げた。
「バカやろ。わざわざこんな物持ってきやがって」
 フォースはそう言うとため息をつく。式服も作ってあるのだが、宝飾の鎧の豪華さにクロフォードが惚れ込み、押し切ったのだ。宝飾の鎧は確かに名前の通り、そのままで充分に宝飾品だ。
「また作り替えなくてはいけないのだと、兄が申しておりました。誰かさんのおかげで」
 フォースはウッと言葉に詰まってから、俺のせいじゃないだろ、と返し、胡散臭げに横目でスティアを見ている。
「すっごい綺麗だったわよ? リディア」
「別に。いつだって綺麗だ」
 不機嫌な声に、スティアは一瞬レクタードを見てから、もう一度フォースと向き合った。
「ぶっきらぼうにしてないで、綺麗だと思ったら綺麗って言ってあげなさいよ?」
「そんなこと言い続けてたら、他に何もするがないだろ。ったく」
 じゃあな、と短く息を吐くと、フォースは神殿へ向かって歩き出した。思わずスティアと視線を合わせる。
「ねぇ、なんだか、いい感じにボケてない?」
 スティアの言葉に、思わず吹き出しそうになる。スティアは笑みを浮かべると、レクタードの腕を取って引いた。
「私たちも行きましょう。フォースがリディアの花嫁姿を初めて見るところは見逃せないわ」
「確かに」
 ライザナルの挙式は、最初から最後まで二人一緒にいられる。フォースはライザナルの皇帝になるのだから、ライザナルのやり方で式を挙げればいいのにと思う。
 スティアに抱かれた腕が温かい。レクタードはスティアに笑みを返し、二人で一緒に歩き出した。

   ***

 先に神殿に入り花嫁を待つ時間は、見せ物のようでひどく苦痛だろうと、フォースは常々思っていた。
 実際、花束とグラスを手に、講堂の真ん中を通って祭壇前に行く時は視線を浴びた。だがその後は、幾人かの視線は感じるものの、思ったほどの苦痛にはならなかった。むしろ手にしているグラスから水がこぼれないように気をつけていることの方が、辛いと思う。
 ライザナルの人間には物珍しいだろうシャイア神の祭壇か、そうでなければ後方の扉に、人の目は向けられている。この神殿にいる者は、フォース自身も含めて考えていることは同じなのだろう。早く花嫁が見たいのだ。
 たまに視線を感じても、宝飾の鎧のおかげか、目が合うことはほとんどなかった。サーディとユリア、バックスとアリシアが、わりと側にいて、目配せをしたくらいだ。気楽でいられるせいで、フォースはただリディアが現れるのを楽しみに待っていた。
 神殿の講堂は大きくはないが、すべての席が埋まっている。花嫁を連れてくるシェダを含め、お互いの両親が一番前の席と決まっているだけで、特に席順などはない。クロフォードはリオーネとニーニアを従え、一番前の席にいる。その横にはレクタードとスティアもだ。
 フォースは、そこにルーフィスも呼ぼうと思っていた。だが、警備を優先させるため、神殿入り口付近にいると報告を受けたのだ。残念だとは思ったが、話ができるわけでもなく、改めて考えるとその方がずっとルーフィスらしいとも思う。
 ふと聞き慣れた声が聞こえ、神殿の真ん中あたりに視線を向けると、アジルとブラッドがフォースに手を振ってきた。二人の取って付けたような正装が可笑しくて笑みを浮かべると、二人はそれに答えるように振りだけでおどけて見せ、またまわりに溶け込むように動かなくなる。
 祭壇裏のドアが開き、正装したグレイが出てきてフォースに歩み寄った。まさかとは思ったが、やはりグレイが挙式を仕切るらしい。フォースに笑みを向けると、グレイは講堂を見渡した。いくらか話し声の聞こえていた講堂が、静かになる。
「ただいまから、シャイア神の御子であるフォースとリディアの結婚式を挙行いたします」
 誰もが同じ一人の人間だとの意味で、御子といいながら慣例通りに名前を呼び捨てられる。肩書きの一つもなく、聞き慣れた名前で呼んでもらえることが、フォースには快感だった。
 クロフォードに反対されるのではと思ったが、メナウルのやり方での挙式にまで譲歩してしまったため、すでにどうでもいいらしい。マクラーンでの披露目の時にはライザナルの慣例通りにすると、交換条件を出されただけで済んだ。
 グレイの合図で神殿の扉が開かれる。その向こうに陽の光を浴びて、花束を手にしたリディアが立っていた。神殿が感嘆の声に包まれる。
 視線を上げたリディアと目が合うと、愛おしい気持ちが痛いほど胸にわき上がってきた。綺麗だと思ったどんな時よりも、さらに美しく見える。一緒にいられなかったのは、たった半日だったが、駆け寄らずにこの場に立っていることすら、フォースには苦痛に感じた。
 フォースと同じグラスを持ったシェダがリディアの側に立ち、空いている手でリディアの手を取ると、二人でゆっくり祭壇の方へと歩を進めてくる。リディアがフォースの隣に並び、その向こうにはシェダが立った。グレイがシェダと向き合う。
「リディアを嫁がせることに異議はありませんか?」
「ありません」
 キッパリと張りのあるシェダの声が嬉しい。グレイはうなずくとフォースとリディアに献花した。手にしていた花束を二人で一緒に祭壇へと置く。リディアの空いた手に、シェダはグラスを渡して席に着いた。
「それでは、プロポーズの言葉を」
 グレイにそう言われ、フォースはリディアと向き合う。まわりが一層シンとした気がした。
「リディア。……、綺麗だ」
「プロポーズと違う」
 小声でのグレイのつっこみに苦笑する。緊張していたのだろうリディアが、柔らかな微笑みを浮かべた。フォースは改めてリディアを見つめる。
「一生涯愛し続ける。そばにいて欲しい」
 はい、とうなずき、リディアは顔を上げた。
「ついて行きます」
 そのんだ瞳に、人前でもかまわないから、段取りを無視して力一杯抱きしめたいとフォースは思った。挙式というのは、どうしてこんなに堅苦しいのだろう。
「水の授受を」
 グレイに促され、フォースは持っていたグラスを差し出し、その水をリディアに飲ませた。お返しにリディアが手にしている水をフォースが飲む。
 シャイア神は水にたとえられるので、こういう儀式があるのだ。互いの故郷の水に慣れ、互いの渇きを癒す存在になるとの意味があるのだと、グレイに教わっていた。
 水の残りを一つの入れ物に流し込み、グラスをその奥に並べて置く。カチンと音がしてグラスが並んだ。
 グレイがフォースとリディアの手を取って重ね、二つのペンタグラムを繋がれた手の手首にかける。
「誓いの言葉をどうぞ」
 その言葉に、リディアと見つめ合い、呼吸を合わせた。
『シャイア神の御子として、いかなる時も変わることなく誠実に、愛情、尊敬、信頼を持って、共に歩んでいくことを誓います』
 プロポーズの言葉とは違い、誓いの言葉はすべて決まっている。結婚式に出席するたびに聞いていた言葉だ。声を合わせ、よどみなく言えてホッとする。
「誓いの封印を」
 そう言ってグレイが手にした布地は、いつも式で使っていた布よりも光沢がある。不思議に思って見ていると、フワッと頭上からかけられたその布は薄く、透き通っていた。
 誓いの封印に透き通った布など、今まで見たことがない。布を用意したというサーディが、ユリアと視線を合わせて笑っているのが布越しに見える。
 文句を言いたくなったが、誓った言葉を口づけでお互いの中に封じ込めるために、誓いの封印という儀式があるらしい。まさか文句まで封じるわけにはいかないので、何も口にしないよう、グッと我慢した。
 リディアは手を口元に当ててうつむき、笑っているのだろうか、肩を震わせている。フォースはペンタグラムのかかっていない方の手をリディアの腕に添えて向き合った。見上げてくるその微笑みに、布が透けていることなど、どうでもよくなってくる。
 ゆっくりと顔を近づけ、唇と唇を合わせた。ワッと歓声が上がる。丸見えなのだろうから仕方がない。腹が据わったからか、これでリディアは自分のモノだ、しっかり見ておけ、などとフォースは思った。
 唇を離して笑みを交わし、手にかかっているペンタグラムを取る。フォースが自分で持っていたペンタグラムはクロフォードに返してしまったのだが、クロフォードはその代わりにと新しく作ってくれていた。それをリディアの首にかける。ライザナルでも滅多に採れることのない青い金剛石なのだそうだ。
 石の中では最も堅く非常に高価だ。ライザナルの一部でしか採れない石で作られたペンタグラムが存在していること、それをリディアが持っていてくれることを、フォースはとても嬉しく思った。
 もう一つのペンタグラムをリディアの手でフォースの首にかける。元々リディアが持っていた物で、何度も自分を救ってくれた大切な宝物だ。
 グレイは祭壇に供えられていた二つの花束を、左右の席に渡した。その二つの花束から、参列者が花を抜いて隣に渡していく。
 二人で頭から被っていた透明な布が、グレイによって取り除かれ、フォースに手渡された。布の端を探し出し、リディアと二人できちんとたたむと、腕にかけて持つ。
「フォース」
 静かな口調でグレイが口を開く。
「そなたには、なぜリディアなのか、なぜ今なのか。リディア。そなたには、なぜフォースなのか、なぜ今なのか。その意味を決して忘れることの無きよう」
 その言葉に応え、リディアと二人で深く礼をする。頭を上げたフォースに、グレイから細い糸で編まれたレースのリボンを渡された。講堂の方を向いたフォースとリディアの間に、グレイが立つ。
「これで二人は晴れて夫婦となりました。二人の幸せを願い、どうぞ祝福の花をお贈りください」
 その声を合図に神殿が歓声に包まれ、参列者が中央の通路に向かって花を投げ始めた。フォースはその花を一本ずつ拾ってリディアに渡す。すべての花を拾い、二つだった花束をリボンで一つにまとめ、初めて神殿を出ることができるのだ。花を投げた参列者は神殿を出ていき、外で二人を待ちかまえている。
 ふと、サーディと目が合った。その手から花がいて足元に落ちる。フォースはそれを拾い上げ、サーディに視線を向けた。
「この布、サーディの時まで大切にとっておいてやるよ」
 フォースが手にした布地を指し示すと、サーディは可笑しそうに笑みを浮かべる。
「バカ言え。新しいの寄こせよ」
 本当に、そんな日が早く来たらいいとフォースは思った。ずっと悩んでいたのを知っているからこそ、サーディにも幸せになって欲しい。
 すべての参列者が外に出て、残された花を全部拾う。フォースはリディアが抱えているたくさんの花をリボンで結んだ。そこにグレイが顔を出す。
「おめでとう。嬉しかったよ。まさか俺がフォースとリディアの結婚式をやれるなんて」
 フォースは、グレイが差し出した手を握る。
「色々ありがとう」
 隣でリディアも頭を下げた。グレイは、ああ、と返事をして笑みを浮かべる。
「外でみんなが待ってるよ」
 グレイはそう言うとフォースとリディアの背中を押した。フォースは笑みを返すと、リディアの手を取って神殿の外へと足を踏み出した。

   ***

 神殿前には式の間に食事が用意され、参列した客はそれぞれの場所で会話に興じている。ほとんどの参列者と話を終え、フォースとリディアは会場の片隅にいたルーフィスを、ようやく捕まえていた。
「そいつはあまり役に立たんぞ。腹が減ったと言っても、芋の皮を剥いて茹でることしか知らん」
 ルーフィスの言葉に、リディアがクスクスと笑う。
「は? 食ってたじゃねぇか」
 フォースの反論に、ルーフィスはフッと息を吐く。
「塩すら入れ忘れることがあったからな。マズいったらない」
「大丈夫です。作るのは好きですから」
 そう言って笑ったリディアに、ルーフィスは笑みで応えた。
「終戦協定を結ぶ時には、陛下の護衛でマクラーンにお邪魔するよ」
「だったら、その時にでも母の墓に」
 フォースが言いかけた言葉を、ルーフィスは手でさえぎる。
「わざわざ見たいとは思わんよ。私が知っているエレンだけがエレンではないことくらいは理解している。それに遺体は渡したが、心までは取られようがないのだしな」
 ルーフィスはエレンを忘れていないし、忘れようともしていない。忘れなくていいのかもしれないが、ずっと変わらずにいることが、ルーフィスにとって幸せなのかはわからない。だがもしこのままでいることが幸せだと思っているなら、ひどく寂しいことだと思う。
「ちゃんと見ろよ。俺が墓に案内する」
 思わず声が不機嫌に響いた。
「何を怒っている」
 ルーフィスからは、いつもと変わらない口調で返事が返ってくる。
「怒っちゃいないけど。もういい加減自分が幸せになることを考えてもいいんじゃ……」
「私は今でも充分に幸せだよ。それに、お前に老後の面倒を見ろとは言わんから安心しろ」
 老後などという言葉が出るくらいだ、やはりいくらかは不安に感じているのだろうと思う。フォースが眉を寄せると、ルーフィスは笑みを浮かべた。
「見てもらうならリディアさんだな」
「はぁっ?! ばっ、バカやろっ! 俺が嫌なら誰か見つけてサッサと結婚しろ!」
 慌てて返した言葉に、ルーフィスは声を立てて笑う。
「そんなに結婚して欲しいなら、私がましいと思うくらい幸せになって見せろ。話はそれからだ」
 そう言うと、ルーフィスは笑いながら背を向け、休戦協定を結ぶための準備をしている騎士の方へと去っていった。
「幸せに見えてないなんてこと、無いよな?」
 呆然と見送ったその腕に、リディアが腕をませてくる。
「今より幸せなんてこと、あるのかしら」
 リディアは、ルーフィスが入っていった扉を見つめている。自分がリディアを見るのと同じように、ルーフィスが母を見ていたことを思い出す。ルーフィスは同じ幸せなら、すでに持っていると言いたいのかもしれない。
「昨日より愛してる。毎日、そう思う」
「フォース?」
 突然の言葉に恥ずかしそうに頬を赤らめ、リディアは伏し目がちにフォースを見る。
「これ以上なんて無いと思うのに、それでも一瞬前より好きなんだ。幸せだと思うのもそれと似ている。式が終わって神殿を出た時、これ以上は無いと思った。でも俺、今の方が幸せだ」
 リディアの表情が微笑みに変わった。フォースもリディアに笑みを向ける。
「きっと幸せも重ねていくモノなんだ。父だって、そのうち納得せざるを得なくなる」
 うなずいたリディアと見つめ合う。唇を寄せ合ったその視界の隅に、緑色の物体が飛び込んできた。思わずそっちに顔を向ける。
「ティオ?!」
 大きい姿のティオは、子供に姿を変えながら駆け寄ってくる。
「キスしたかったらすればいいじゃない。俺、待ってるし」
 ケラケラと笑うティオに、フォースは苦笑した。
「心配してたんだぞ?」
 フォースの心を読んだのか、ホントだ、と、ティオは長い舌を出す。
「ごめん。リーシャがこっちに来たくないって言うから」
 ティオが振り向いた先を見ると、城壁の上で組んだ足にをついた格好で、リーシャが座っているのが見えた。見られたのが分かったのだろう、ツンとそっぽを向く。
「でも、今日はいいって。だからお祝いに来たんだ。フォースもリディアもおめでとう」
「ありがとう。って、いいのか、そんなんで」
 ハァと息を吐いたフォースに、リディアは苦笑を向けてかがみ込み、ありがとう、とティオの頭をでた。ティオは嬉しそうにクフフと笑う。
「リディア、とっても綺麗だよ」
「私帰るっ」
 高い声が聞こえ、リーシャは城壁の上を歩き出している。
「ええっ? 待って、今行くよ!」
 ティオはリーシャに向かってそう叫ぶと、じゃあまたね、とだけ言って慌てて駆けだした。緑色の大きなすがたに戻ったティオが、あっという間に遠ざかっていく。
「二人とも、元気そうだけど。大丈夫なのかしら」
 そう言うと、リディアはティオの背中を寂しげに見送っている。
「大丈夫だろ、結局は一緒にいるんだし。今だって帰るって言いながら、側に来るまで飛び去らずに待ってたろ」
 その言葉で納得できたのか、リディアの頬がようやく緩んだ。
「そうね、大丈夫ね。進歩しているんだわ」
 笑みを交わし、もう一度向けた視線の先で、ティオはリーシャと城壁の向こうへ消えていった。

   ***

「農産物の輸出なぁ。分かってるだろ? ヴァレス近郊で採れる作物は毎年同じ量の確保は難しいんだ。なにせ降雨量が安定しない」
 サーディはテーブルにお茶の残り少なくなったカップを置いて、ため息混じりにそう言った。フォースは向かい側の席から、まっすぐな視線を返してくる。
「こっちからは毎年一定量の水を輸出する」
「はぁ? 水路でも建設するってのか?」
 驚いて聞き返し、それでもうなずくフォースに首を横に振ってみせる。
「そんな大がかりなことをして、渇水したらどうするんだよ」
「ルジェナの水源は、ほとんどがディーヴァの湧き水なんだ。渇水どころか不足した記録も無い」
 この間ライザナルの人間になったばかりだというのに、フォースは渇水の記録まで知っているのだ。今から皇帝になるための知識を仕入れるのは大変だと思うが、すでに勉強させられているのだろう。
「水が豊富だなんてましい。国力の差もだ。水路建設なんて気楽にぬかしやがって」
「戦が無くなれば、騎士や兵士も減らさなければならない。とりあえずはそんな労働でも無いよりはましだろう。それに、メナウルが暖かいのは羨ましいよ。北方は厳しい。食うモノがなければ、どうしようもない」
 実際水はノドから手が出るほど欲しい。水源の少ない国境近辺のことだ、安定した水が手に入れば収穫量は格段に増える。フォースはそれも分かっているのだ。真剣な目がサーディを見据えている。
 フォースの挙式のあとに休戦協定を締結し、今は終戦も視野に入っている。こんな時だからこそ、両方の欠点を補い合える事項を示すことが、終戦の反対派を押さえるためにも有効に作用するだろう。
「まぁ、善くも悪くも運命を共にする部分があるってのは無駄にならないよな」
 そう言うと、サーディは大きくうなずいた。
「了解、分かったよ。帰ったら詰めてみる」
「頼むよ」
 そう言って笑ったフォースは、いつもの友人としての顔のままだ。国と国の話し合いをしているというよりは、ゲームでもしているように感じる。だが、フォースのライザナルは面積も広いし人も多い大国だ。半端な気持ちで対応はできない。
「スティアが嫁に行くって決まったからかな。メナウルは付属品、みたいな図式が出来上がっちまった気がする」
 ペロッと舌を出してみせると、フォースはのどの奥で笑った。
「だったらニーニアと結婚すればいいじゃないか」
「は? ……、今なんて言った?」
 聞こえてきた言葉が信じられず、思わず真顔で聞き返す。
 部屋の奥にあるドアが開き、リディアが新しくお茶を持って入ってきた。リディアと笑みを交わし、フォースは再び口を開く。
「だったらニーニアと結婚すればいいじゃないか」
「ホントに一字一句繰り返したな? 八歳のお姫様は、フォースと婚約してたんじゃ」
 リディアには禁句だっただろうかと、サーディは口をつぐんだ。お茶を取り替えているリディアは、表情を変えずに微笑んだままだ。フォースは苦笑して肩をすくめる。
「そんなものは、もう最初から無かったことになってる。なんのために余計なことを全部解決したと思ってるんだ」
 フォースが手を伸ばした先はテーブルの影で見えないが、一瞬フォースを見たリディアに触れたのだろうことは分かった。
「そりゃあリディアさんのためだろうけど。立派に平和に貢献したんだぞ?」
 そう言うと、フォースはいくらか不機嫌な顔を向けてくる。
「でも、リディアがいなきゃ、たぶん何一つしてない」
 サーディは、ため息をつきついでに、ああそう、と口にした。フォースの単純なところは、何をやっても変わらないのだろう。そう思うと嬉しい気もする。
「べつにニーニアと俺が結婚しなくても、レクタードとスティアで婚姻関係はできるんだし」
 リディアが礼をして元来たドアへと向かっていく。目で追っていたフォースがサーディと向き合った。
「でもそれでサーディの言う付属品もお互い様になるだろ。それに、まだ結婚しないなら、ちょうどいい。五、六年もすればいい歳だ」
「おい、五年経ったって十三だろうが」
「十年経ったら十八歳、十五年経ったら二十三歳、二十年経ったら……」
 なにを言っているのかと、頭を抱えたくなる。ニーニアも年月が経てば、それだけ女性らしくなっていくのは当たり前のことだ。
 でも、まだ心の中にはユリアがいる。キッパリ振ってもらってよかったと思う。でも、いきなり振り出しに戻る必要も無いと思う。
 ふと顔を上げると、フォースの興味津々な視線と目が合った。
「何を考えているんだ?」
「なっ?! なななんにも……」
 慌てまくったサーディに、フォースは笑みを浮かべる。
「いや、サーディは一目惚れするような性格してないだろ。だったらじっくり付き合うしかないじゃないか」
「いくらなんでも惚れるのに五年も必要ない。心配してくれなくても、自分で探すし」
 たぶんユリアを好きになったように、また誰かを好きになれるだろう。だがまだ見せられる進歩はしていないのだと思い、サーディがため息をつくと、フォースは肩をすくめた。
「大変だよな。結婚相手を探すのも」
 探すという意味では、フォースは少しも大変じゃなかっただろうと突っ込みたくなるのをこらえ、サーディは苦笑した。嫌みの一つも言いたくなる。
「ホントだよ。ライザナル王家がメナウルから女の子を二人も連れて行くものだから」
 あはは、とサーディがめた笑い声をたてると、フォースは冷笑を浮かべた。
「じゃあ、スティアだけ返すよ」
「おま……」
 間を置かずに返ってきた言葉に、どう反応したらいいのか分からない。フォースはのどの奥で笑い声をたてる。
「冗談言ってないで、レクタードとスティアの婚礼の日取りを決めなきゃな」
 冗談という言葉で、スティアだけと言ったのが、自分の嫌みへの返事だったことを思い出す。サッサと話を切り上げてくれなかったら、ずっと悩んでしまうところだったとため息をついた。フォースは、じゃあ、と席を立ちかける。
「本人たちを交えて話した方が早いか」
 サーディは、ああ、と返事をし、フォースと一緒に立ち上がった。
「早いとこフォースを解放しないと、リディアさんが可哀相だもんな」
「え? 話し合いなら一緒に行けばいいだろ?」
 フォースの言葉に、サーディはしげな顔を向ける。
「寂しいとか言う以前に、結婚初夜だろ?」
 あ、と言ったきり、フォースは固まっている。忘れていたのかと思うと、笑いがこみ上げてくる。
「だから急いでるのかと思った」
 サーディはペロッと舌を出し、フォースの先に立って歩き出した。