大切な人

     ― 大切な人 ―

 恋人のリディアが女神の降臨を受けて巫女になってしまってから、二位の騎士である俺がリディアの護衛を務めている。普段の生活の半分が完璧に拘束される仕事で、原則としては妻帯者くという決まりになっている。すなわち、俺は例外というわけだ。
 リディアの父親で神官長でもあるシェダ様が、俺を護衛に推挙してくれた。降臨を受けると生活が変わってしまうので、護衛はなるべく馴染みのある人間に就いて欲しいと考えたらしい。
 確かに馴染みはある。知り合ってからは四年、恋人としての付き合いを始めてから一ヶ月が経っていた。しかも、リディアが降臨を受ける直前には、一緒に暮らそうという約束まで取り付けていたのだ。
 生活は本当に一変した。その、城都の神殿でした約束は無かったことになってしまったはずだったのだが、結局は一つ屋根の下で、一日の半分は一緒にいる。だが、どっちも同じ、なんてことは全然無い。
 降臨を受けて巫女になってしまっては、女神が降臨を解くまでの間、結婚できないのだ。シェダ様に、最後の一線さえ越えなければ大丈夫だなどと、引きつった笑顔で言われなければ、もう少し気楽にいられたかもしれないが。
 なんにしても、自分の首どころかメナウルの行く末まで、すべてこの手にかかっている。それなのに。どうしてコレが俺の仕事なんだと文句を言いたい仕事が一つだけある。いや、他の奴の仕事だったら、もっと文句を言いたくなるのは自分でも分かっているのだが。
「フォース? 今日は誰も来ないわね」
 リディアの、半分眠っているかのようなくつろいだ声が後ろから聞こえる。聞こえる?
「え? あ、ああ、そうだな」
「何か、考え事でもしてたの?」
 背中を向けたまま慌てて答えた俺に、リディアは問いを返した。
「いや、考えてない、なんにも考えてない」
「ボーっとしてたのね」
「そ、それも違う」
 狼狽している俺に、リディアが息で発したような忍び笑いが届く。おまけにチャポンと水音も響いてくる。
「このお湯、ってるのよ。ティオがね、山で湧いているお湯を運んでくれたんですって」
「温泉ってことか」
「そう。このお湯、ツルツルしてるの」
 へぇ、と、適当に返事をして会話を切り上げ、ツルツルだなどと余計なことを考えないように努力する。
 そう、リディアは湯浴みをしているのだ。俺はリディアに背を向けて、浴室の入り口に立っている。この状態で襲われたりしたら大変なので見張りをしている訳だ。騎士のに、二位の印の赤いマントなどという面倒な格好をしていなかったら、俺が一番危ないような気もするのだが。
 最初、アリシアに教えられ、難儀だわね、とか言われた。昔コロコロと一緒に育てられた姉のような人だ、俺をからかうには絶好の種だったに違いない。しかも神官のグレイから、見ちゃマズイから横を向くな、前だけ見ていろというお達しが下った。だが、そんな状況では廊下の壁しか見えない。横を見ずにどうやって見張るんだと聞くと、気配で察しろと言いやがった。気配をうかがったりしたら、後ろばかりが気になって仕方がない。まさか、襲われても前だけ見てろとは言わないだろうとは思うが。
 本気で俺を危ないと思っているのか何なのか、アリシアが茶々を入れに来たり、マルフィさんが世間話をしに来たり、ユリアがどっちをだか分からないが見張っていたりと、結構な割合で人がいたりするのだが、今日は誰も来ない。いたらうるさいし、いなかったら気を紛らわすのがたいへんなので、いてもいなくてもどちらでも構わないのだが。
「きゃーーーーっ!」
「な?」
 悲鳴に驚いて振り返ると、駆け寄ってきたリディアを抱きとめる格好になった。素肌の感触に息をのむ。リディアは腕の中で身をよじり、浴室の奥に向かって指をさす。
「トカゲがいるのっ」
「り、リディア?」
 俺は慌ててリディアを包み込むように抱きしめた。
「半端に離れると見えるからっ」
 横を向いた視線の隅で、リディアはハッとしたように俺を見上げ、それから鎧にしがみつく。
「見ないで……。でもトカゲ……」
 見ないでといわれても、もう遅い。俺の手に、怖いのか寒いのか、リディアの震えが直に伝わってくる。
 俺はマントを外して、リディアの背中からかぶせた。リディアはそのマントを胸の前まで引き寄せて合わせる。肌の白とマントの赤が、ひどくなまめかしい。恥ずかしいのか、リディアはうつむいたままだ。
 そういえば、リディアはトカゲを見たら固まってしまうくらい嫌ってるんだっけ。よくここまで逃げてきたよな。ってか、こんな所にトカゲなんかいるのか?
「どうしたの?!」
 慌てて駆けてくる音がして、アリシアが顔を出した。
「あんたっ、リディアちゃんに何か」
「何もしてないって。言うと思った」
 俺はアリシアをって言葉を返し、無言でうなずいているリディアをアリシアの方へ押しやった。
「そろそろ来ると思ってたんだ。ちょっとリディアをよろしく」
 リディアをアリシアに預けて側にあったタオルを取り、奥まで行って浴槽の裏側をく。予想通り、トカゲではなくヤモリが壁にへばりついている。
「トカゲじゃないよ、これ」
 俺は、小さなヤモリを捕まえて、タオルに閉じこめた。アリシアが顔を引きつらせる。
「イモリねっ」
「ヤモリだよ。イモリはこんな所にいないし、指が五本だったし」
「どっちも一緒よ!」
 バタバタ暴れるタオルを気にしながら、リディアはアリシアの後ろに隠れている。そこに、普段は子供の姿をした妖精のティオが、慌てた様子で駆け込んできた。
「フォース、なにすんだよぉ。せっかくここが気に入って住んでるのに」
「気に入ったって言われてもな」
 俺がれて向けた視線を、ティオはわけが分からずに見返してくる。
「リディアが怖がっているだろ? 間貸しは駄目だ」
 タオルごと差し出した俺の顔を読んでから、ティオは周りをくるっと見回し、リディアとアリシアに目をとめて、ため息をついた。
「そっか、一緒に住むの嫌なんだ。可愛いのに」
 ティオは、俺からヤモリ入りのタオルを受け取り、ヤモリを解放した。
「中は駄目だって。他に住むトコ探そう」
 ヤモリに向かって話しかけ、俺にタオルを手渡すと、ティオはそのヤモリと一緒に浴室を出て行った。
「あ、タオル、取り替えてくるわ」
 アリシアは、俺の手からタオルをむようにして引き取る。
「あ、サンキュー」
「いいえぇ」
 アリシアは、後ろ手に手を振って、浴室を出て行った。リディアは俺の側に来て、柔らかい微笑みで見上げてくる。
「ありがとう」
 そのフワッと温かい唇とキスを交わす。俺は、リディアの身体に腕を回し、マントの下に何も着ていないことを思い出した。
「しまった、順番間違えたかな」
 アリシアにタオルを取りに行ってもらうより先に、リディアをお湯につからせた方が良かっただろうと思う。俺のつぶやきに、リディアは不思議そうな顔で見上げてきた。
「寒くないか?」
 リディアは首を横に振る。
「全然平気。ティオが運んでくれた温泉のおかげかしら」
 リディアは肩をすくめて笑顔を見せると、何を思いだしたのか表情を曇らせる。
「ねぇ、こうして身体を隠すのにマントを貸してもらうのって二度目よね」
 その言葉を聞いて、リディアに話していなかった二度目にハタと思いつく。
「いや、三度目なんだ」
「え? あ、降臨の時……」
 そう、リディアが降臨を受けた時に、衝撃のせいなのか服が弾け飛んでしまい、裸同然で意識を失ってしまったリディアの身体を隠すのに使ったのだ。うなずいた俺を見て、リディアは眉を寄せた。
「ごめんなさい」
 リディアは、頭を下げるように、コツンとひたいを鎧に付ける。
「私、見せるにいいだけ見せてるくせに、何もしてあげられない」
 その言葉に吹き出しそうになって、俺はグッとこらえた。それがバレたのか、リディアは頬を膨らませて見上げてくる。
「笑い事じゃないんだから」
「笑ったわけじゃない。見せるにいいだけって。そんなにじっくり見てないよ」
「ホントに?」
 俺は、不安げに眉を寄せているリディアにうなずいて見せた。
「ああ。ただ、しっかり覚えているだけで」
「もうっ。それ、おんなじっ」
「え? ……じゃあ、じっくり見ておくんだったかな」
 リディアは目を丸くし、あっという間に顔を真っ赤にする。
「おんなじは撤回
 リディアは、顔を隠すようにうつむく。俺は、了解、と言葉にして、回していた腕に力を込めて抱きしめた。
「それに俺、何もしてもらってない訳じゃない。こんなに近くにいてくれてる。今はこれで充分だよ。どれだけ力になっているか」
 リディアは俺の顔をうかがうように見上げてくる。
「嘘じゃないよ。でも、今は、だからね」
 一瞬目を見開いてから、リディアは悲しげに目を細めた。
「一緒に住もうって約束、忘れてないわ。でも、降臨が解けるまで、待っていてくれるの? いつになるか分からないのに」
「待つよ。でも、リディアを女神から取り返す努力もしようと思っているけど」
 俺の言葉にリディアの頬がみ、笑みが浮かぶ。もう一度唇に触れるだけのキスを交わした。
「ありがとう」
 この微笑みを守りたい。俺の隣で揺るぎない幸せを感じていて欲しい。そのためなら、どんな努力だって惜しまない。リディアは俺の大切な人なのだから。
 近づいてくる足音に、俺は浴室の入り口に向き直った。アリシアが替わりのタオルを持って入ってくる。
「リディアちゃん、風邪ひいちゃうわよ。まだお湯に入ってなかったの?」
「どうしろってんだよ」
 俺のため息を聞いて、アリシアはリディアの格好を改めて見た。
「あ、そか、マント。そのまま入っちゃえばよかったのに。このお湯じゃ変色しそうだけど」
「人のモノだと思って」
 つぶやきながら浴室に背を向けて立ったところで、アリシアが俺の頭にタオルをかける。
「おい」
「見ちゃ駄目よ」
「見ねぇよ」
 あまりの手持ち無沙汰に、頭からタオルを取ってんでいると、リディアがお湯に入ったのだろう、水音が聞こえた。アリシアがマントを手に戻ってくる。
「はい。ちょっと湿ってるけど、けときゃ乾くわ」
 その言いを鼻で笑って、アリシアにタオルを渡し、差し出されたマントを受け取り付け直す。
「あ。リディアちゃん、コレでいい?」
「え? い、いいです」
 わけの分からない会話を交わして、アリシアはクスクスと笑いながら浴室を出てきた。
「リディアちゃん、タオル、あれでいいんですって。とりあえずあんたの方がイモリよりは立場が上よ」
 それを聞いて、頭からかぶせられたタオルの感触を思い出し、そのタオルとヤモリをくるんだタオルを比べられたのだと、ようやく思い当たる。
「てめっ、なんてことをっ」
「よかったわねぇ」
 満面の笑みを浮かべ、ポンポンと肩を叩かれて、身体から反撃する気力が抜けてため息が出た。
「なによ」
「イモリじゃなくてヤモリだ」
 アリシアはそれを聞いて、しばらくコロコロと笑い続けていた。



漫画家の栗原一実先生が、このお話に出てきた降臨のシーンを描いてくださっています。
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