大切な人

     ― 浮気 ―

 恋人のリディアが女神の降臨を受けて巫女になってしまってから、二位の騎士である俺が陛下の命によりリディアの護衛を務めている。護衛にいてからは、ほとんど一日中リディアの側にいる。
 たまにリディアに面会を申し込まれることがある。それが信者なら、いや信者だからこそ、むげに断るわけにもいかない。
 リディアは降臨を受けてヴァレスに来るまで、城都から出たことがなかった。城都で知り合ってヴァレスに移ってきたという例外を除いては、前線に近いこのヴァレスに知り合いはいない。
 だが、今日のローネイという客は、どうもその例外らしかった。緊張感のない笑顔を向け、知り合いです、と口にする。背は俺と同じくらいだが、ずっと細身、無条件でモテそうな顔立ちだ。
「どういったお知り合いですか?」
「名前を言っていただければ、分かりますよ」
 満面の笑みを浮かべてこの答えだ。それではさっぱり分からないので、許可を出せるわけがない。俺はムッとした気持ちを抑えつけた。
「分かるように言っていただけませんか」
「名前を言えば、慌てて飛び出してきてくれるなんだけど」
 これでは全然答えになっていない。俺は黙ったまま次の言葉を待った。ローネイは乾いた笑いを顔に貼り付け、一歩後退る。
「お、幼なじみです。城都では二年前まで、一軒んで隣に住んでいたんです」
「では、こちらでお待ちください」
 ローネイのおびえた声に、もしかして怖がられたのだろうかと、俺はできるだけ丁寧に敬礼を返し、神殿裏へと続く廊下へ入った。
 今日は皇帝陛下の娘で、リディアとは友人の姫君、スティアが朝から来ている。俺がいる時は、世間話や当たりりのない噂話をしているのだが、俺が見回りなどで席を外している時は、コソコソと小声で恋愛関連の話をしているようだ。
 二人がいる居間兼食堂へ向かっていると、その部屋の方から、スティアのいやに楽しそうな声が聞こえてきた。
「やだもう、リディアったら。可愛すぎ!」
 テンションが高いからか声まで大きい。スティアが笑い声を立てると、リディアは頬を膨らませた声で、もう、と返す。
「だって、その頃は人を好きになるってどういうことなのか、まったく知らなかったんだもの」
 リディアの言葉に、スティアはいかにも可笑しそうな笑い声を立てる。
「でも、それをすっかり信じちゃうなんて。リディアらしい」
「男ってそんなモノなのねって思ったわ。嘘つき。二度と信じないって」
「でもフォースのことは信じているじゃない」
 スティアは、フフンと鼻を鳴らす。
 いつもなら俺にそんな話を振られても訳が分からないし面倒なので、二人だけで話してくれた方がありがたい。でも今のセリフは、どうやってもリディアが男にされた話に聞こえ、く気になる。
 俺が部屋へ入ると、スティアは、あ、と口を隠し、そのまま笑いをえている。リディアはいつものように側に来て、俺を迎えてくれた。
「なんの話をしてたんだ?」
 リディアに聞いた俺に、スティアがクスクスと笑い声をたてる。
「聞こえてたの? やっぱり気になるわよね。聞いたこと無い話でしょう」
「もう、スティアったら」
 リディアは頬を膨らませてスティアを見遣り、それから上気した顔で俺をうかがうように見上げた。
「全然なんでもないの。ホントよ?」
 いつもならなんでも包み隠さず話してくれるリディアが、言いたくないのか言葉をす。俺は不服な気持ちを押し込めて、そう、とだけ返事をした。リディアは不安げに俺を見上げている。
「何?」
 俺が聞き返すと、リディアは慌てて首を横に振った。
「ううん。……でも、もしかして怒ってる?」
「は? そ、そんなこと無いよ。怒ってなんかいない」
 そう言いながら、もしかして少しでも顔に出てしまっているのか、リディアにはそれが分かっているのか、と情けなくなる。でも、そこから先を問いただすことなどせず、リディアはいつもと変わらない明るい笑顔を向けてくれた。
「あ、そうだ、お客様なんだ。ローネイっていう」
「えっ? ローネイ?! あ……」
 目を丸くして驚いたかと思うと、リディアの視線がスティアに向いた。スティアは顔の右半分でニヤッと笑う。
「リディア、浮気は駄目よ」

   ***

 訳の分からないスティアの言葉に送り出され、俺はリディアをエスコートして講堂へ戻った。並んだ椅子の二列目に腰掛けていたローネイが、リディアを見つけて立ち上がる。
 リディアの足が止まり、俺は振り返ってリディアを見た。ちょうどローネイから死角になる場所で、一瞬困ったような顔を俺に向けると、リディアは俺の前に出る。
「お久しぶりです」
 丁寧にお辞儀をしてローネイを見つめる笑顔は、どこか不安げだ。リディアにとって、あまり会いたくない人間のように感じる。スティアは浮気は駄目とか言ったが、リディアがこのローネイという男と、浮気をするかもしれないと思ったのだろうか。
 ローネイはポカンと口を開けて、リディアの姿を下から上までじっと見つめていたが、目が合ったのか、ハッとしたように笑顔になる。
「リディア、とっても綺麗になったね。あれからも元気にしてた?」
 ローネイのため息混じりの言葉に、リディアはうつむき加減で、ええ、とうなずいた。
 ローネイは最前列の椅子を回り込み、リディアの前に立つ。俺は直視しないように明後日の方に視線を向け、視界の隅でローネイを監視した。さすがに気になるのだろう、ローネイはチラッと俺を見てから、リディアに視線を戻す。
「降臨なんて受けちゃって、いろいろと大変なんだろう? 引っ込み思案なのに、始終護衛がいたり、信者が来たりで」
「いいえ。フォースが居てくれると、とても安心できますし、信者さんはましてくださいます」
 リディアは軽く首を横に振ってそう答えると、視線をローネイに向けたままで一歩後退り、俺の腕をとった。ローネイは、そのリディアの手をチラチラ見て気にしている。
「あ、そうなんだ?」
 ローネイはリディアがうなずくのを見て、鏡の前で練習をはじめたばかりのような笑顔を浮かべた。
「ヴァレスはどう? 結構いい街だろう」
 ローネイが世間話で話をげるのを、俺は一瞬だけ直視した。本当は護衛をしている時に話し相手を直視するなど、失礼になるので厳禁だ。だが、リディアが嫌がっているのが分かるので、今回は居づらくするためにわざとそうした。もしかしたら、俺がいる前だから会いたくない相手なのかもしれないが。
 俺はサッサと視線を外したが、ローネイの頬が引きつるのが分かる。ええ、とだけ返事をしたリディアに、ローネイはまた無理に笑みを浮かべた。
「懐かしいなぁ。城都にいた時は楽しかったよね。告白してからは、よく一緒に遊んだっけ」
「あ、そうみたいですね。レイラちゃんに告白して、一緒に遊んでらしたんですよね」
 告白ってリディアにか? と思ったら、リディアは俺の知らない名前を出した。ニッコリ笑ったリディアを、ローネイは目を丸くして唖然とした顔で見ている。俺は思わずその表情に見入ったが、今度は俺のことなど全然目に入っていないようだ。
「な、なぜそれ……、あ、いや、あれは」
 その狼狽えぶりで、ローネイがリディアに告白した後で、隠れてレイラという娘にも告白したのだろうと想像がついた。
「楽しそうでしたよね。私もよかったです。だって……」
 リディアは、んでいた俺の腕を抱くようにして寄り添ってくる。俺はすぐ側から見上げてくる笑顔に、微笑みを返した。
「そ、そうなんだ? それは、良かった、ね?」
「ええ。ホントに」
 ハッキリとしたリディアの返事に、ローネイは何度目かの冷めた笑い声をたてた。
 それにしても、ローネイがリディアに告白したなんてのは、いつの話なんだろう。よく一緒に遊んだという言葉も気になってくる。リディアは笑顔を崩さないまま、ローネイに視線を向けた。
「それで、今日はどんな用事でいらしたんですか?」
 ローネイは、ウッ、と言葉に詰まっている。ローネイは、ただ単に会いに来たのだろうと思う。リディアの笑顔は変わらないが、言っていることは凄く冷たい。もしかしたら、よほどのことがあったのだろうか。
「い、いや、もういいんだ。元気そうな顔が見られただけで」
「そうですか。寄ってくださって、ありがとうございました。では、お元気で」
 リディアがローネイに向けた挨拶が、俺の耳には、二度と会わない、と聞こえた。リディアを怒らせたら、結構怖いのかもしれないと思う。
 リディアの丁寧なお辞儀に、ローネイはヒョコッと頭を下げると、神殿を出て行った。ローネイが見えなくなってから、戻ろうとしたのだろう、俺の腕を引いたリディアと目が合う。
「彼と、何かあったんだ?」
 俺が思わずした質問に、リディアは目を丸くした。
「え? ローネイとのことは、フォースと出会った数日前の話よ?」
「は? じゃあ十二歳? にしては、随分怒ってるんじゃ……」
 俺が眉を寄せると、リディアはすぐ側から不安そうに見上げてきた。
「昔のことだって、信じてくれないの?」
「そうじゃなくて。今まで四年間も忘れられないくらい、ひどいことをされたのかと思って」
 俺の目をのぞき込んでくる瞳に突き動かされるように、胸の鼓動が早くなる。俺の頬にリディアの手が触れた。
「心配してくれるの? 嬉しい」
 リディアは笑みを浮かべて頬にキスをくれたが、それだけでは不安も心配も消えない。リディアは肩をすくめると、俺の腕をとって、戻りましょう、と廊下へ導いた。
「もう、さんざんな思いをしたのよ」
 廊下へ入ると、歩を進めながらリディアは口を開いた。
「友達というほどの付き合いもなかったの。それがある日花束なんか持って来て、君が好きだ、君はぼくのお嫁さんになる人なんだよ、って」
「い、いきなり?」
 まじまじと見つめる俺に、リディアはうなずいてみせる。
「そう。それでね、私、信じちゃったの」
「は?」
 思わず目が点になる。リディアは掴んでいた俺の腕を揺すった。
「そんなに驚かないで。その時は、お嫁さんにならなきゃいけないのなら、好きにならなきゃって思っちゃったの」
 そこまで聞いて、リディアと出会った時のことを思い出した。その頃も純粋で、疑うことを知らない娘だった。
「ローネイを好きなんだって一生懸命思いこんだわ。それからすぐフォースに助けてもらって、好きになるってこういうことなんだって……」
 胸の前で手を重ね、うつむき加減な横顔に、うっすらと赤みが差した。俺がのぞき込むように見つめると、恥ずかしそうに少しだけ微笑む。
「でも、結婚する人は他にいるんだから、好きになっちゃいけないって思ったわ。それに、フォースにもフラれちゃったから、やっぱりって……」
「あれはフッたわけじゃ」
「同じだもの」
 フッたといっても、俺にはそんな感情は一つもなかった。リディアの父親に、神官になってリディアと結婚しないか、と問われ、騎士になると即答したことが、リディアにとってはフラれるということになってしまったらしい。
「ご、ごめん」
 思わず謝った俺に、リディアは首を横に振った。
「私にはフォースじゃないんだって思ったら、寂しくて悲しくて……。でもね、それから三日経って見ちゃったの。小さな花束を持って、レイラちゃんに、君が好きだ、君はぼくのお嫁さんになる人なんだよ、って」
「そ、それは……」
 とても声に出しては言えないが、その軽さがましくないこともない。
「ひどいでしょう? でも、嬉しかったの。別に私がローネイのお嫁さんにならなくてもいいんじゃない、フォースのこと好きでいていいんだって分かって」
 リディアは、顔を隠すように、俺よりほんの数歩前に出て歩きだす。
「その嬉しかった分、ローネイが大嫌いになったの。あんな奴に初恋だって思ったなんて、もう一生の不覚」
 出会った頃に、そんなことがあったなんて、初めて聞いた。それからずっと、好きでいてくれたのかと思うと、自然と頬がむ。リディアは、チラッとこっちを見たかと思うと、頬を膨らませて俺の前に立った。
「もうっ、バカだと思ってるでしょう。顔が笑ってる」
 そのあと何を言うつもりだったのか、口を開きかけたリディアを抱き寄せる。
「子供だったんだし、バカだなんて思ってないよ」
「ほら、やっぱり思ってる……」
 どうしてそうなる、と思いながら、リディアの顔をのぞき込んだ。眉を寄せて見上げてくるリディアに、俺は笑みを向けた。
「ローネイが失態を演じてくれたことに感謝してる。リディアは純粋で可愛いと思ったし、ずっと好きでいてくれたのも嬉しかったんだ」
 まだ不安そうにしているリディアを、俺は腕に力を込めて抱きしめた。リディアが息を飲むのが伝わってくる。
「他の誰を信じなくてもいいけど、俺だけは信じて。リディアに嘘はつかないよ」
「ホントに……?」
 リディアを抱いたまま、俺は、ああ、とうなずいた。
「それと、全部隠さずに教えてくれたのも嬉しかったよ。ありがとう」
 分かってくれたのか、リディアの身体からスッと力が抜けるのを感じる。俺は、上気したせいで一層赤みを増した唇を引き寄せキスをした。唇が離れ、見上げてくる瞳には、柔らかな笑みが含まれている。
「私も、フォースには全部知っていてもらえると嬉しい」
 俺は、リディアのすべてを包み込みたくて、もう一度しっかりと抱きしめた。

   ***

 神殿裏の居間兼食堂では、スティアと兵士一人が待っていた。俺は、リディアをスティアの向かい側に座らせ、兵士から報告書を受け取って、外へと続く扉の側に立った。
「ねえねえ、今来ていたローネイって人、さっきの話の人でしょう?」
「そうなの。噂話なんて、するモノじゃないわね」
「それでフォースにも話したの? 初恋の人だって」
 名前が出てきて、俺は思わず二人に背中を向けた。報告書を読まなければならない。兵士は背筋を伸ばして立ってはいるが、視線はリディアとスティアに向いている。
 その報告書には、ここ二、三日、神殿のまわりをウロウロしていた男のことが書かれていた。その特徴が背格好から服装まで、ローネイと酷似している。神殿に来るまで何日も悩んだのなら、軽い奴だと思ったのは間違いかもしれない。もし本当にローネイだったなら、もうきっと神殿には来ないだろう。子供の時のこととはいえ、自業自得だ。
 俺は二人を見て気のんだ笑顔を浮かべている兵士の肩をポンといた。ハッとしたように、兵士の顔が引き締まる。
「今さっき来たローネイって客が、たぶんコイツだ。一応この報告をくれた兵と、ローネイを見た兵とで、照らし合わせてみてくれ」
「はい。で、またウロウロしてたらどうします?」
「そうだな。もし来るようなことがあったら報告してくれ。俺が直に話をするから」
 兵士は敬礼を残して出て行った。俺は返礼を返し、扉を閉める。
「こうして考えると、フォースってリディアには合っているのよね。裏がないっていうか、単純だし」
 スティアの言葉に、誰が単純だ、と思いながら、知らん振りを決め込もうと、手にした報告書にもう一度目を落とした。
「ねぇ、フォース」
 スティアがすぐ後ろから呼んだ声に、思わず振り向いてしまいゾッとした。スティアが満面の笑みを浮かべてこっちを見ている。
「フォースの初恋っていつ? 誰に?」
「はぁ?」
 絶対からかわれると思っていたせいか、身体の力が抜けた。いや、からかわれているのには違いないかもしれないが。
「リディアのを聞いておいて、フォースはリディアに教えてあげないの?」
 そう言われて俺は考えをらせた。ずいぶん前に一瞬で終わったこととはいえ、相手はリディアも知っている人間だ。言ってしまうのは、凄くヤバいような気がする。俺が悩んでいると、リディアは慌てて側まで来て、真剣な顔で俺を見上げてきた。
「待って、言わないで。お願い」
 リディアが俺を止めると、スティアは不服そうに口をとがらす。
「どうして? 聞きたくないの?」
「もういてる気がするの」
 その言葉に、思わずキョトンとしてリディアを見下ろした。リディアは困ったように眉を寄せている。
「リディアったら。浮気もバレなければいいってタイプかしらねぇ?」
 イタズラっぽく笑うスティアに、リディアは、そうかも、と顔を隠すように頬を手で覆ってうつむいた。
 時が経てば、誰もがどこか変わっていくのだろう。でも俺がリディアを好きでなくなることだけはないと思う。リディアの口から、お元気で、なんて言葉は一生聞きたくない。
 俺はリディアを片腕で引き寄せた。
「側にいてくれれば、他の娘なんて目に入らないから大丈夫、浮気なんてしないよ」
「なにげに条件付きね」
 ツッコミにハッとしてスティアを見ると、半分笑った顔で俺を指差す。
「でも、フォースは女神の護衛なんだもの、フォースの方から側にいないとクビだわよ」
「クビでいいよ。俺が護衛しているのは女神じゃなくてリディアなんだ」
 それを聞いて、スティアはケラケラと笑いだした。
「やだぁ、フォースったら不良騎士。なんだか凄く不真面目だけど、許してあげる」
 スティアが背を向けて椅子に戻るに、俺はリディアにそっとキスをした。