大切な人

     ― 朝の光 ―

 恋人のリディアが女神の降臨を受けて巫女になってしまってから、二位の騎士である俺が陛下の命によりリディアの護衛を務めている。護衛に就いてからは、ほとんど一日中リディアの側にいる。と言っても夜は勤務外なので、別々の部屋にいるのだが。
 朝を迎えた部屋に、リディアの子守歌が流れている。ソリストだけあって、優しくて暖かで美しい声だ。このままベッドの中で目を開けることなく、もう一度眠りに落ちることができたら、どんなに……。
「フォース、起きて。朝よ」
「ん……」
 素直に声が出てこない。ってか、子守歌を歌いながら起きてってのは、どうしてだ。なんだか自分の手が、無意識に布団を引き寄せている気がする。クスクスとリディアの可笑しそうな、だが押さえた笑い声が聞こえてきた。
「ねぼすけなお父さんね。ねぇ?」
「だー」
 だー、って。……、え? お父さん?
「ねぇ、起きて。フォース」
 目を開けると、ベッドのすぐ側に立つリディアの腕の中に、小さな赤ん坊がいた。夢の続きでも見ているような光景につられて起きあがり、ベッドの上に座り込む。
 リディアは、寝ぼけているだろう俺の顔を見てクスッと笑うと、やっと起きたわね、と腕の中にいる赤ん坊に柔らかな笑みを向けた。どうしてリディアが赤ん坊を抱いているんだろう?
「見て。可愛いでしょう」
 リディアは、俺が赤ん坊の顔を見やすいように、身体の角度を変える。
「産んだの?」
 ひどくボケた声が出る。リディアのキョトンとした瞳で、俺は自分がなにを言ったのか気付いた。
「は? ち、違っ。誰が産んだ子なんだって聞こうと思って」
 リディアは吹き出すように笑い出すと、赤ん坊を抱き寄せるように抱え直した。
「やぁだ、ビックリするじゃない。まだ頭が寝てるのね? 私が産んだのかって聞かれたのかと思ったわ」
「まさか。作ってもいないのに」
 俺がボソッとつぶやいた声に、リディアは一瞬で顔を赤くした。
「フォースっ?!」
「え? あっ、ご、ゴメンっ。つい」
 赤ん坊を抱いたまま、リディアは俺に背を向ける。
「もうっ。寝ぼけてちゃ駄目よ」
 いや、今のは全然寝ぼけてないんだけど。リディアは、上気した顔で俺に微笑んでみせる。
「いつもより遅いから起こしに来たのよ。目は覚めた?」
「思いっきり」
「じゃあ、着替えて。そっちで待ってる」
 そう言うと、リディアは壁際の方へと移動して、ベッドの端に腰掛けた。すぐに、さっきまで聞こえていた子守歌を小声で歌い出す。そうか。だから起こしに来て子守歌だったのだ。
 寝衣を脱いでいて、リディアの後ろ姿が目に入り、服を着る手を止めて黙ったまま様子をうかがう。赤ん坊は、リディアの子守歌を喜んでいるかのように、身体をバタバタと動かし、とても寝そうには見えない。
「この子のお母さん、よっぽど疲れていたんでしょうね、講堂でとても眠たそうにしていて。だから少しでも眠っていってもらうことにして、その間赤ちゃんを預かったのよ」
「へぇ、そうなんだ」
「子供を育てるのって、大変なんでしょうね」
 リディアは、膝の上にのせるように赤ん坊を抱き、うつむき加減に少し首をかしげてゆっくり身体を揺らしている。赤ん坊はそんなリディアの顔を、じっと見つめているようだ。こんな光景を見ていると、シャイア神よりよっぽど女神だと思うほど、俺の目にリディアがとても神聖でまぶしく映る。
「旦那様、職人なんですって。シャイア様が降臨して休戦状態なのに、忙しいんですって」
「誰もが今のうちに直そうって思うんだろ」
「そうなの?」
「ああ。そういうモノ」
 リディアは肩をすくめると、赤ん坊の顔をのぞき込んだ。
「お父さんも、大変なのね」
 お父さん? ああ、そういえば。
「さっき俺のこと、お父さんって呼んだよな?」
 そう、確かにリディアは俺のことを、そう言った。リディアはよっぽど驚いたのか、息を飲んで振り返る。
「聞こえてたの?! きゃあ!」
 短い悲鳴を上げ、リディアはいくらか赤みが残っていた顔をさらに赤くして、慌てて俺に背を向けた。振り回されたかっこうの赤ん坊が、アーだのウーだのと声をたてている。
「ご、ごめんなさい! 服、まだ着てなかったのね……」
「え? あ」
 その言葉にハッとして、手にしていた服を急いで身に着ける。
「ゴメン、見とれてた」
「やだ。フォースったら、自分に」
「は? 違う違う、リディアにだ」
「わ、私に?」
 リディアは振り返りかけて身体を硬くした。それにしても、なんで俺が自分に見とれると思うんだ。なんとなく可笑しくて、笑いがこみ上げてくる。
「服は着たよ。あとはコレ」
 俺は笑いをこらえて、を側まで引きずり寄せた。ガチャガチャという金属音にホッとしたのか、リディアはゆっくり息を吐き出す。立ち上がって振り返り、脛当を着けている俺を見たが、リディアはすぐに目をそらして、また背を向けてしまった。
「どうしたの?」
「ん、ううん、なんでもないわ」
 なんでもないと言うわりには、どこかおかしいと思うのだが。
 俺は顔を洗ってから着ける上半身のパーツを残した状態で立ち上がった。様子を見るために、すぐ後ろまで行くと、リディアはまるで緊張でもしているかのように動きを止める。俺は、ふとそこから手を伸ばし、赤ん坊の頬に触れてみた。
「柔らかいな」
「ぷ、プニプニしてて、可愛いわよね」
 そう言いながら、リディアは身体をこっちに向けた。だが、なんだかリディアの声までもが固い気がする。
「でも、リディアとあまり変わらない」
「え? わ、私……」
 顔を上げたリディアの頬に触れると、リディアはまたうつむいてしまった。バタバタと動く赤ん坊が、やたらと元気に見える。
「なぁ、抱いてもいい?」
「ええ。あ、気をつけてね」
 そう言うとリディアは、そっと俺の腕に赤ん坊を乗せた。赤ん坊はそっぽを向いて、やっぱり元気に動いている。
「男の人の抱っこって、手が大きいから赤ちゃんが安心するんですって」
「へぇ、そうなんだ」
 俺はリディアの話を聞きながら、赤ん坊をベッドに寝かせた。
「……、フォース?」
 しげなリディアと向き合うと、思わず苦笑がもれてくる。
「俺が抱っこしたいのは、こっち」
「え?」
 俺は、きょとんとしているリディアを抱き寄せた。
「ええ?」
 リディアは丸くした目で見上げてきて、目が合うとまた顔を赤くしてうつむき、俺の胸に頬を寄せた。リディアの身体から、少しずつ力が抜けていく。様子はおかしいと思うが、特に怒っているわけでもなさそうだ。
「なぁ、なんかリディア、変だよ?」
「え? う、ううん、そんなことないわ。気にしなくて、いいのよ?」
「ホントに?」
 俺が顔をのぞき込むと、リディアはうつむいたままはにかむように微笑んでから、視線を向けてきた。
「フォースのそういうところ、大好き」
「そういうところ?」
 わけが分からず聞き返すと、リディアは笑いをこらえるように肩をすくめる。
「手の大きいところも」
「も? って」
 リディアはクスッと笑い声をたて、俺の頬にキスをすると寄り添ってきた。
「ぜーんぶ」
 リディアの声が、俺の胸のあたりでこもって聞こえる。どこか恥ずかしげなせいか、普段にも増して、なんだか異様に色っぽい。
 思い切り力を込めて抱きすくめると、鎧のない身体に、リディアの感触がじかに伝わってきた。反ったノドの奥から薄く開いた唇を通って、苦しげな息がれてくる。俺はその唇を唇でふさいだ。
 手だけじゃなく。身体も気持ちも大きくなりたい。リディアのなにもかもすべてを、余すところ無く包み込めるように。そしてずっと守っていけるように。
 ココン、と、ドアに早いノックの音がした。
「リディアいる? お母さん、起きたって」
「あ、今行きます」
 神官であるグレイの声に、リディアは俺に微笑みを残して離れると、赤ん坊をそっと抱き上げた。ドアの外からの声が続く。
「下で待ってるよ。あ、おっぱいまであげなくていいからね」
「は? やるか、ボケ」
 神官の言う冗談じゃないだろうと思いつつ、あきれて反論した俺に、グレイは声を立てて笑う。
「ケチだな。独り占めか」
「ばっ、バカ言えっ」
 反論しようと慌ててドアを開けると、グレイはケラケラ笑いながら階段を下りていくところだった。呼び止める間もなく、見えなくなってしまう。ため息をつきつつ振り返ると、リディアはまた顔を赤くしていた。
「リディアを独り占めできるモノなら、今すぐにだってしたいよ」
 ため息混じりで言った俺に、リディアは少し寂しげに微笑んだ。だが、今はまだリディアの中にシャイア神がいて、すぐに実現することが無理なのは俺にも分かっている。
「シャイア様も、こんな風にお生まれになったのかしら。だったら私たちのことも、いつか分かってくださる日が来るわよね」
 リディアの言葉に、俺はしっかりとうなずいて笑みを返した。
「来るさ。もしも分かって貰えなくても、リディアを取り返すために努力するよ」
 そう。シャイア神から、いつか必ずリディアを取り返す。俺とリディア、二人の子供を抱いたリディアを、近い将来、きっとこんな風にめられるように。
「その時は、この子にも、みんなにも、幸せな世界になっているといいわね」
 俺が願っているのは、リディアの幸せだけなのだが。でも、リディアが幸せを感じられるのがそういう世界ならば、少しでも近づけるように、できる限りの努力はしようと思う。
 リディアと、赤ん坊越しにもう一度、キスを交わす。それから俺は、顔を洗ってから着ける鎧のパーツを、部屋を出るために肩にかついだ。